これまで2回(1, 2)に分けて、私たちのアプローチが、バトラーのジェンダーのパフォーマティヴィティの考え方から大きな影響を受けてきたことを説明しました。しかし、結局パフォーマティビティの考え方から微妙に離れていくことになりました。実践するだけならここまで知る必要はないかもしれませんがエステティック・ストラテジーの理論の根幹に関わるため、そのあたりの経緯をご説明したいと思います。
言説の内部か、言説の条件か
私はXerox PARCの出自でエスノメソドロジーをやってきた経緯から、基本的に実践論(practice-turn)から入ってきましたので、バトラーの考え方はとても親和性がありました。特に、日常的な反復的実践を通して社会の事実が打ち立てられていくということ、そして行為は自由に生み出されるのではなく既存の実践の「引用」であり、引用の中で引用されるテクスト自体も構成されていくこと、そしてこの引用の実践の中で与えられた意味がずらされる「再意味づけ」がなされることで、新しいことが達成されることなどです。しかし、エステティック・ストラテジーを組み立てていく中で、徐々にこの枠組みを維持することができなくなってきました。もちろん、依拠している部分はかなり大きいままですが。
このことを理解するために、バトラーに対するひとつの批判的な視点を議論したいと思います。ジョアン・コプチェックによるラカン派精神分析の性(Sex)の理論からの批判です(スラヴォイ・ジジェク、アレンカ・ジュパンチッチも同じ系統の主張です)。まずバトラーにとっては、性(Sex)が本来「不安定」なものであり、言説が無理矢理安定化させているという考え方ですが、コプチェックにとっては、性は「不可能」であるということです。不可能というのは、意味のシステム(=言説=言語=表象=象徴界)にとって捉え切れないこと、つまり意味のシステムの限界であり不可能性を示しているということです。男性とか女性、あるいはその関係を考えると、意味が完全に定まらず、攪乱される感覚があります。どちらも、性には何か確固とした本質がある(生体的特徴など)という本質主義を批判するのですが、バトラーは偶発性を選択することで本質主義を否定し、コプチェックは本質のようなものはあるがそれは不可能という空虚なものであるという主張をします。
この違いは微妙なように見えますが、決定的に重要でもあります。バトラーにとっての政治は、意味のシステム(言説)の内部での意味作用の政治ということになるのですが、コプチェックにとっては、そもそも意味のシステムを構成している条件における政治ということになります。もちろん、バトラーは不安定で根拠のない性を暴くことで、意味のシステムの中で既存の意味が偶発的であり不安定であることを暴き、意味のシステム全体を攪乱することを目指しています。しかし、それを意味のシステムの内部でやるというわけです。例えば、もともと差別的な用語であった「クィア」を取り込んで意味を転換するようなものです。
違う言い方をすると、デリダを経由してパフォーマティブの考え方を取り入れているので、バトラーは意味の不安定性を、意味を確定できず次々と先送りしていく構造に基づかせています。そのため、意味のシステム(言説)の均質な平面の中だけで議論するしかなくなってしまいます。その平面の上にも下にも何もないということです。逆に、バトラーにしてみれば、コプチェックやジジェクの理論は意味のシステムの中ではなくその条件のみに焦点をあてる形式主義であり、内容のない政治にしかならないことになります。ここでの政治というのは選挙活動とかではなく、女性や性的マイノリティの立場を変革しようということです。一方で、コプチェックやジジェクにしてみれば、そもそも形式の水準での政治が内容の政治を可能にするのだということになります。つまり、舞台の上での意味を変容させるだけではなく、意味が成立するための舞台自体を変革しようとするのです。
性は不可能である
ここで特に焦点となるのは、コプチェックの有名な言い方としては、「Sexはテコでも動かない」ということです。バトラーの引用の反復というモデルでは、性自体の偶発性が隠されてはいても、結局そこには何の根拠もないし、いつ壊れてもおかしくないとも考えうるものです。一方で、コプチェックにとっては、Sexは言説によって何とでもなるようなものではなく、むしろその不可能性だということです。
バトラーは反復の概念でもって、主体が自由に言説を構築できるわけではないことを何度も強調するのですが、繰り返しそうしなければならないのは、やはり理論的枠組みにおいて、言説の偶発性を想定してしまっているからです。偶発的であるなら、何でもアリではないかということです。そうではないと何度説明しても、後付けの説明になってしまうのです。ジジェクも言うように、本質主義を批判するのに、あまりに性急に真逆の偶発性を受入れてしまったということが問題なのです。
そして、バトラーが偶発性を受入れ、意味の不安定性を主張することにより、理論からSex自体を排除してしまう構造になってしまいます。もし人が反復の中であっても、意味は偶発性を露呈するので再意味化できると言うなら、性自体を語ることの根拠が失われてしまいます。現実において、性が強固に維持されてしまっているという事実のみが、根拠として残ることになりますが、なぜそうなるのかは説明できません。前回見たように、『ジェンダートラブル』の後に、バトラーが精神分析に切り込み、「予めの排除」について語るのは、この限界を乗り越えるためとも捉えることができます。ですので、私たちはバトラーがバトラーを乗り越えようとしたところに依拠しているのです。
コプチェックにとっては、意味のシステムの不可能性こそが、意味のシステムの中においてひとつの意味を押し付けられることに抵抗する支えとなるということです。バトラーにとっては、意味のシステムの中で、ひとつのカテゴリ(性的差異に限らず人種など)を押し付けられたとして、それが不安定さを露呈したところで、再意味化していく消極的な戦略しか取れないことになります。コプチェックにとっては、そもそも意味のシステムの不可能性である性は、そのような押し付けに対して抵抗する(それが不可能であることを示す、あるいはそこで言説が失敗する)ことができるというわけです。反復の実践の中での意味のずれを狙う再意味化だけでは、意味のシステム全体を転覆することは難しくなります。私たちが実際のイノベーションの事例を分析する中で、やはりこのようなラディカルな政治の可能性について考えることを余儀無くされたことが、バトラーから少し距離を取る必要に至った理由です。
一方で、コプチェックの理論にも弱点があります。性の偶発性を強調するバトラーが男女というバイナリを批判することができ、ノンバイナリもバイナリと変わらないと主張する根拠を持つことができます。しかしコプチェックは、男と女を分けるというラカンの議論を出発点としますので、ノンバイナリの方々のあり方をうまく説明できません。ラディカルな説明を試みるなら、おそらく性別は男と女という二つあるのではなく、まず男しかなく、その過剰としての女があるというラカン(とジュパンチッチ)のモデル、つまり「MF」は実は「M+」であり、Fはこの+の位置を占めるという方法がありえます。そして、この「M+」が「MF」という実体に表象されることで、今度は「MF+」という形で過剰がトランスなどの方々に置き換えられるというわけです。これはこれで面白いのですが、主体が内部に持つ亀裂を議論するのに、ここまで議論をややこしくするのは避けたいところです。すべては特定の歴史的状況に依存していると言うフーコーを引き継ぐバトラーは、一定の批判力を持つことになります。
不可能性を中心に据えて
私がエステティック・ストラテジーを練り上げるためにジャック・ランシエールに依拠することから始めたのですが、それがバトラーの再意味化の政治から離れざるを得なくなった理由です。つまり、社会に内在する「間違い」という捻れの存在を重視し、排除され声を与えられない存在(分け前なきものの分け前)を政治の中心に据えるランシエールは、ジジェクやコプチェックのように言説の不可能性を捉えようとしているのです。また、エステティックを価値創造に節合するために鍵となる概念が、ラカン派精神分析の「享楽」なのですが、それを取り込むためにも、この言説の不可能性がどうしても必要となったのです(これについてはまた説明したいと思います)。しかしながら、バトラー自身も構成的排除という考え方で言説の外部を捉えようとしていたなら、私たちはバトラーに大部分依拠することができたのも自然だと言えます。
このような細かいことはエステティック・ストラテジーを実践する上で、それほど意識する必要はありません。しかしながら、デザイン実践をどう捉えるのかを考える人にとっては、避けて通れない議論ではあります。デザイン方法やアプローチを考えている人や教えている人はそういうことについて考え抜いた上で議論していますので、利用する場合も自分の目的を十分に理解した上で選択する必要があります。