エステティック・ストラテジーの構想は、実はあまり明示的には議論していませんが、ジェンダーのパフォーマティヴィティの議論に大部分依拠しています。エステティック・ストラテジーを理解しやすくするためにも、一度ご説明しておきたいと思います。後編はこちらです。 私は2017年に書いた本の中で、「デザインとは社会の外部性を内部に節合することである」と説明しました。実はこれは私のデザインの定義というよりも、自分のための今後の研究の方向性としての宣言のようなものでした。

ジェンダーはそれほど確固としたものではない

ジェンダーのパフォーマティヴィティは、ジュディス・バトラーが『Gender Trouble』で提案した考え方です。結論から言うと、この考え方の根幹には、主体化があり、そのときに重要となるのが「構成的外部(constitutive outisde)」という概念です。どういうことかと言うと、私たちが何らかの主体として形づくられるとき、外部を作り出す、あるいは外部を排除するのですが、その外部に依存し、愛着し、呪われているということです。構成的というのは、主体から排除したものが、実は主体の構成にとって中心的であるという意味です。

順番を追って見てみましょう。パフォーマティヴィティ(遂行性)とは、何かがあって、それを表現するという順番を逆転させることを意味します。つまり何かを表現することを通して、その何かが打ち立てられると考えます。その表現の前にはそれはなかったもの、つまりその何かは確固とした本質として、オリジナルとして、起源として存在しているのではなく、表現の中で打ち立てられるにすぎず、後づけであたかも元々確固としたものとしてあったかのように扱われているということです。

ジェンダーのパフォーマティヴィティとは、ジェンダーというものがもともと確固としたものとしてあるのではなく、日常の反復的な実践を通して都度打ち立てられるということです。さらに言うなら、バトラーが批判するのが、男女の二元論であり、異性愛のモデルです。つまり、人は男か女かのどちらかであり、両方ではないこと、そして男は女を愛し、女は男を愛するというモデルです。このようなモデルは普遍的な原理として存在しない、日常の反復的な実践を通して、あたかも本質として存在するかのように構築されるということです。

排除することで形づくられる身体

しかし、ここで疑問が残ります。日常的な実践によって形づくられるというと、身体や物質のようにカタいものを説明できないのではないか。つまり、性器はたしかにあるではないか。さらに、もしジェンダーがそれほど確かなものでないなら、確かでないものとして扱えばいいのに、なぜ男女の二元論というものがそれほど強固に構築されなければならないのかという問いです。この男女二元論にあてはまらない同性愛者、トランスジェンダー、クイアなどの身体を、ただそういうものもあるよねと受入れたらいいのに、なぜあれほどまでに強く忌避するのかという問いです。つまり、ジェンダーがなぜ呪われているのかという問いです。

前者のカタい物質的身体の問いは『Bodies that Matter』という本で取り組まれ、後者の呪われたジェンダーについては『Psychic Life of Power』という本で取り組まれました。私は自分はジェンダーの研究者とは言えないのですが、この3冊の本から受けた恩恵は計り知れません。実は私の本来の領域である組織論で書いている鮨屋のルーチンやワインの価値づけの論文は、この「構成的外部」という考え方に呪われています。

構成的外部とは、まずこの身体性の問題に関連します。ジェンダーがパフォーマティブに構築されるということは、好きなように自由に構成されるということではありません。あるいは、カタい身体がないということでもありません。この身体のカタさを無視するのではなく、むしろより向き合って深めて問題とするのです。染色体はありますし、性器もあります(かならずしも二元論にあてはめられるほど確かなものではない形で)。むしろ重要なのは、身体について語ったときには、男女二元論がすでに介在しているということです。そもそも染色体を数えて男女を判断している時点で、男か女のどちらかに割り振らなければならないという規範に囚われてしまっているのです。エコーで性別が判断された胎児は、すぐに「男の子」あるいは「女の子」として参照されます(日本ではわかりにくいですが、she/her, he/himと呼ばれます)が、その前の胎児はあたかも人間ですらない「それ(it)」という扱いにも見えます。ジェンダーのカテゴリ(言説)の「以前」に身体は存在しないというのは、染色体がないということではなく、身体に向き合ったときにすでにジェンダーの言説的規範がその身体を統制してしまっているということです。

ということは、身体には言説によって「意味」があるとされるものと、そこから「排除」されたものがあることになります。言説によって統制されたものには意味がありますが、そこから排除されたものは「無-意味」となります。ここに暴力的な権力があるわけです。意味があるということは、それが重要である("it matters")という意味ですが、同時に物質(matter)はこのように排除を通して意味を与えられているものだということです。一方で、無-意味とは、学生さんが「よくわかりません」というような素朴なものではなく、意味ある世界の外部の意味不明なものですので、恐しいものです。この排除された外部をクリステヴァの言葉で、「アブジェクト(abject)」と言います。糞尿のように身体から排除したものですが、まさにおそろしいものです。これが例えば、ゲイ・レズビアンの身体、クイアの身体などの置かれた位置です。

そして排除は回帰する

しかし、排除しました、それで終りというわけにはいきません。排除は、実は内部に帰還します。つまり、排除することでなんとか意味を持って安心できたわけですので、この排除された外部は、内部での安心を作り出すための土台となっているのです。だから、この外部は明示的には排除されていますが、あくまで外部として、亡霊として内部に付随しているのです。そして、社会的に作り上げられた男女二元論という言説の脆さは、この排除された外部が内部に節合された点にあります。

だから私たちは排除した無-意味に魅了されています。例えば、日常生活で多くの人が忌避するとしても、男女二元論を攪乱するキャラクターは、テレビや映画においては人気があります。多くの人が魅了されているのです。ゲイやレズビアンの身体が単に「それもあるよね」と流すことができず、おぞましさを生み出すとすると、それはこの排除された無意味に惹きつけられており、さらに自分が安心できない脆弱さであるということを知っているからです。このような外部を内部に節合することが、内部を整合性あるものとして維持している意味のシステムの解体の契機となると同時に、この外部は私たちの享楽の源泉でもあるというわけです。

私たちは、すでに第二の問い、つまりなぜ男女二元論がなぜ呪われているのかという問いにすでに入っています。この点を次回に詳細に見てみましょう。