前回はジェンダーのパフォーマティヴィティにおける身体のカタさについて議論しました。次に、ジェンダーの呪われた側面について議論したいと思います。これが私たちのアプローチにとて、とても重要となります。

ジェンダーについて考えるということは、人がどのように社会的な主体になるのかという問題について取り組むことです。主体がどのように形成されるのかという点について、ひとつの考え方は、社会的な規範を受け入れることでなされるということです。例えば、男、女、異性愛などの規範を受け入れます。しかし、この受入れは、自発的になされるのでしょうか、それとも強制されるのでしょうか? これはどちらでもなく、その中間のようなものです。このプロセスを主体化(subjection)と言いますが、これは従属化(subjectivation)でもあります。文法的には「主語(subject)」は、発話し行為する能動的な存在ですが、同時に従属(subjugation)という意味もあります。このように主体とは曖昧さを抱えた概念です。

イデオロギーがよびかけ、私たちはふりむく

これを説明するのが、エステティック・ストラテジーでも再三取り上げてきた、ルイ・アルチュセールが定式化したイデオロギーの「よびかけ」という考え方です。アルチュセールは、警察官が歩いている人に「おい、お前」と呼びかけるという例を使います。自分のことかなと思ってふりかえることで、その人は警察官の持つ法の権威に従う主体として位置付けられます。このふりかえりは強制されたわけではありませんが、自発的に従属化されるというわけでもありません。その間のあいまいな行為です。

ここで疑問が生じます。なぜ私たちはふりむくのかという点です。気まぐれに歩いている人が、ランダムなよびかけに対してふりむくのには理由が必要です。私たちが社会的な規範にふりむくとき、それは規範に従わないときの処罰が怖いからでしょうか。そのような単純な話しではありません。バトラーは、よびかけられる人はよびかけと共犯的であると言います。つまり、よびかけられる前から、法によびかけられることに情熱的な愛着(passionate attachment)があるのです。具体的には、まず最初に罪悪感があり、儀式的処罰によって満足させられること、無罪を宣言されること、あるいは罪悪感が客体化され軽減することを求めているのです。さらに言うなら、「権威の顔によって注視されたい」という欲望があります。

例えば子どものことを考えてみましょう。親から「コラッ」と言われてふりむく。子どもは何かいけないことをしたという罪悪感がありますが、わざと親を困らせるようにいけないことをする場合もあります。怒らることを拒否しているように見えながら、怒られたいという側面、つまり親に注視してもらいたいという欲望があります。あるいは教室で先生が学生をあてます。あてられたくないと目を背けたり、自分じゃないふりをしますが、その時点ですでにふりむいているのです。先生が自分を全くあてない(完全に無視される)とわかると、安心するかもしれませんが、逆に絶望するのではないでしょうか。このようにイデオロギーのよびかけにふりむくのは、私たちが何か不安を抱えており、社会という権威からすると不十分であり、欠落しているという罪責感があるからです。そして、その社会に見て欲しい、忘れられて死んでいくのではなく、社会に自分をしっかり記憶して欲しいと思うわけです。

しかしよびかけは失敗する

次に、よびかけは成功しないのではないか、何かそこにすっきりと収まらない何か余剰が残るのではないかという疑問があります。よびかけにふりむき、ある主体を獲得したとしましょう。その結果として、その主体は問題なくクリアなアイデンティティを得るのでしょうか? それはあまり考えられません。つまり、よびかけは必ず失敗するのです。ふりむいたとして、何かそこに収まり切らない残余があります。この残余は、排除された何かを示していますが、それをうまく表現することはできません。

ここでバトラーはアクロバティックな提案をします。異性愛の背後には、同性愛の排除があり、排除された同性愛はなくならず、排除されるが故により強まり回帰するというものです。突拍子もない考えですが、一応考えてみましょう。フロイトは夢や子どもの事例をもとに、人間は必ずしも異性愛を前提として生まれるのではなく、ジェンダーは達成されるものであることを説明しています。同性愛は規範の力が弱いときにはよく見られるものです。そうすると、その同性愛はどこに行ったのでしょうか? 異性愛の規範はかなり強固なものとして私たちによびかけます。そのため同性愛の愛着は最初から禁止され排除されます。しかし禁止されても簡単に消えることはなく、同性愛の愛着は喪失として私たちに回帰し取り憑きます。

そして、バトラーはさらにフロイトに依拠し、解消されない喪失という意味での「メランコリー」と結びつけます(喪失したものが哀悼によって解消されないため憂鬱なものとして残るのです)。同性愛的な愛着は喪失となりますが、それは強固に禁止されており、喪失であることすら否定されているため、哀悼・解消されることなく、異性愛的なジェンダーにメランコリックに取り憑くのです。フロイトによるとメランコリーでは喪失が自分に回帰するナルシシズムがあるために、自分への攻撃、つまり自己卑下や自己攻撃が見られるわけですが、より異性愛の規範をより強固に自分に課していくのです。例えば軍隊がゲイを極端に拒否するのは、しっかり排除されているが背後に取り憑いている同性愛的愛着が解放され歯止めがきかなくなり、男性性が崩壊していまうことを恐怖しているのです。

ラディカルな政治の可能性

ここで、悪名高いドラァグのパフォーマンスの話しになります。『ジェンダー・トラブル』で説明されたのは、男性が女性としてドラァグを演じるとき、女性性が模倣であることが強調されるということです。この効果は、もともと女性が女性を模倣して演じているにすぎないことを、明示的な「模倣」によって暴くという意味で、男女の力関係の批判を超えて、ジェンダーの構造全体を批判をしているわけです。これに付け加えて、ここではバトラーは、ドラァグは、異性愛のメランコリー、つまり同性愛をありえないものとして排除し、排除され哀悼できないという形式で保持し、異性愛の規範をより強固にしてきた構造を暴いていると言うのです。つまり、排除されているために絶対に表に出せないものを表現するという意味で、その政治性はかなり危険でラディカルなものとなっているのです。ジェンダーはもともとパフォーマンスにすぎないのですが、同時にパフォーマンス不可能なものとして排除されたものを、あえてパフォーマンスしてみせるという二重の批判があることになります。

逆に、もしゲイやレズビアンの方々が、異性愛者に対抗して自分たちのアイデンティティを切り分け、独立した確固とした存在で提示したとしたら、それは逆にジェンダーというものの不確かな土台を強固にしている「排除」に加担してしまうことになります。女性というカテゴリを自然視して、権利を主張しても同じことになります。アイデンティティ政治が難しい理由がここにあります。本来それほど根拠があるわけではない社会の規範をより強固にすることに加担するからです。

この同性愛のストーリーが完全に正しいかどうかは置いておいても、排除したものが、排除されたが故により強く取り憑くというメカニズム自体はとても示唆的です。ここまで来て、エステティック・ストラテジーが、なぜ意味のシステムから排除された敗者を救済しようとするのか、そしてなぜそれがラディカルな政治になりうるのかが理解できると思います。このように本来根拠などない意味のシステムを解体することが、イノベーションであるということです。この意味のシステムを解体することは、そこから排除されていると同時に取り憑いているものに、人々が怖がりながら魅せられており、これこそが欲望を駆り立てるということです。人は満たされるべきニーズを持つことで欲望するのではなく、欲望の背後にある呪われたトラウマ的核が前面に押し出されたときの、自己崩壊こそを欲望するのではないでしょうか。もしこのようなトラウマ的核をつきあてることができれば、間違いなく社会を大きく変えるイノベーションとなるでしょう。