先日の、持続可能性のためのデザインの記事に関していくつか質問を受けたので説明したいと思います。欲望を増幅させることがなぜ社会批判となり、持続可能性のためのデザインの根幹となるのかという点です。この点が完全には明確になっていませんでした。

これまで記事を2本配信しています。まず1本目では、私たちのアプローチ「エステティック・ストラテジー」を説明してきました。次に、「持続可能性のためのデザイン」を、このエステティック・ストラテジーの観点からどう捉えるべきかを説明してきました。そちらもご覧ください。


これまでイノベーションを起こすには、意味のシステムからはみ出る「無意味」を表現するということを主張してきた。この無意味は、意味のシステムを閉じることの「不可能性」であり、私たちにとってひとつのトラウマでもある。これは、既存の意味のシステムの中では「邪道」「ありえないもの」「悪」であったりするという意味で、「敗者」となる。イノベーションとは、敗者を救済することで、その時代に行き詰まりを感じている人々の、新しい自己表現の可能性を示すことであり、時代を表現し歴史をつくることを指す。決して消費者の潜在ニーズを満たしたり、問題を解決したりすることではない。

さて、欲望とは何か? 欲望はモノを獲得して解消されるものではない。欲望の対象を獲得したとき、人々は失望する。欲望は、常に何らかの謎に駆り立てられている。この謎は、意味のシステムからはみ出す無意味であり、上記の不可能性であるトラウマ的核に根差している。つまり、敗者が欲望を駆動している。敗者とは、意味のシステムをなんとか閉じるために排除されたものであったりする。だから、敗者を救済するイノベーションとは、欲望を駆動する謎に迫るものである。そして、持続可能性のところでも書いたように、自然とはこの無意味であり、謎である。

しかし、私たちは単に何かを欲望することで何も変わらず、生活が進んでいくことが多い。例えば、マクドナルドのポテトを欲望する、iPhoneを欲望するというように。もちろん背後には無意味があるが、それをほとんど気にせず生活している。これが本当にうまく行くと、何かを欲望し、それに到達して失望し、次のものを欲望し、そして欲望の対象に到達しないことを欲望するというサイクルがまわっていく。これで生活が成立するなら、それも幸せかもしれない。

一方で、欲望が何か意味不明の謎に駆り立てられていることを少しでも感じとり、違和感を持っているなら、私たちはさらに深い欲望に向かう。この謎が何なのか? 権威としての社会は、自分に何を欲しているのか?この謎に向きあうことが重要となる。そして最終的には、この謎の背後には何もないことを感じ、一息つけるようになる。社会において何も謎などない。神秘的な薔薇のつぼみのようなものは存在しないのだ。

トッド・マクゴワンは、映画はこの無意味という欲望の謎を呈示するという。そして、わかりやすいハリウッド的な映画は、愛の成就というシナリオによってこの謎を獲得して終ることで、謎を飼いならし欲望において譲歩する。人々をほっとさせ、また欲望のサイクルに戻ることを可能にしてくれる。一方で、時代を画した数々の映画は、この謎を人々につきつけ、向き合うことを求める。これらの映画が時代を画すことになるのは、ここで表現される謎=無意味=不可能性=トラウマ的核がまさに私たちの欲望の根底にあり、人々がそれらに恐怖を感じながらも囚われているからである。そういう映画はすぐには評価されないかもしれないが、じわりじわりと人々を魅了する。そしてその時代の多くの人々が同一化していくことで、時代の表現となる。

同時に、このような映画は批判にもさらされる。最も強く批判されるのは、それが既存の映画制作の規範から外れるからだけではなく、それが欲望の謎に迫り人々を不安に駆り立てるからだ。人々はそこに魅せられるが、同時に後ずさりする。このように批判されることは、祝福すべきことである。

イノベーションは、欲望のサイクルを維持し人々の潜在ニーズを満たすことでは生まれない。むしろ欲望の秘密を暴き、人々にトラウマと向き合うことを強いて、より強く人々を駆り立てることで、新しい歴史をつくることがイノベーションである。これが、イノベーションが欲望を消し去るのではなく、欲望を深める必要がある理由である。そしてこれが、イノベーションが社会批判である理由でもある。企業のイノベーションが欲望を生成し利益を上げることは、最近では無条件に批判されるようになった。しかし逆なのだ。欲望をより深めることこそが、社会批判なのである。企業は潜在ニーズを見つけようとするのではなく、むしろ社会をよく見て無意味な敗者を見つけ救済することに投資をするべきだろう。

持続可能性のためのデザインでは、エリート的な選択をすることが正解とされ、欲望を消し去ることこそが倫理だと思われているように見える。しかし、それでは欲望のサイクルを肯定することにならないだろうか。むしろ、欲望を深めることこそが、既存の意味のシステムを崩壊させる道である。そして、持続可能性の問題は、人新世の問題であり、人間が問題を解決できるという考え方そのものが問題である以上、この考え方を崩壊させなければならない。むしろ、エリート的な選択が不可能であることをつきつけるデザインが、欲望をより深め、持続可能性への道を拓く可能性を追求できないだろうか。欲望において譲歩しないこと、欲望を求めることこそが倫理なのだ。

このとき、欲望が増幅され、企業の生み出すものが人々を熱狂させ、利益を生み出す。時代を画す映画が大きな興行収入を産むように。

企業は欲望を増幅させ利益を上げるべきなのである。