京都クリエイティブ・アッサンブラージュの第一期が終了しました。もう一度、私たちのアプローチを説明したいと思います。このアプローチは、これまで「文化のデザイン」、「歴史をつくるデザイン」などと呼んできましたが、やはり全く響かないので「エステティック・ストラテジー」という名前にしてみました。エステティック・ストラテジーは、これまでおよそ8年間やってきた私の研究成果の名称で、京都クリエイティブ・アッサンブラージュの考え方の土台になっているものです。


エステティックな水準で考えるということは、何かがよい、うまく機能する、問題を解決するということではなく、そうすることがカッコいいのかどうかを問うことである。例えば、環境問題に関する活動が、環境を守ることを目指すことではなく、それをすることがカッコいいのかどうかを問う。それは浅はかで取るに足りないことだと言われるかもしれない。しかし、この浅いものが解であるとしたらどうだろうか?

私は、エステティックな観点での価値創造が、まさに社会の変革に関わり、ひいては政治の根幹にも関わると考える。なぜか? それはエステティックが「感性」に関わるからであり、システムの中で捉えきれないもの、概念につなぎとめることができないものを捉えようとする動きだからである。エステティックとは、もともとギリシャ語の「感性」、「感覚」を意味するアイステーシスが語源である。システムの中に表象されるものがあるとして、その中でパズルを解くことは有用なことである。しかし、もしそこからはみ出るものがあるとすれば、表象されたものだけで議論することこそが欺瞞となる。この表象をはみ出るものを感じ取るのが、エステティックである。

そしてエステティックとは18世紀中頃に始まる美学も意味する。美学における判断は、あらゆる関心を宙吊りにするものである。つまり、美学が対象とするアートは、見る人に教養が足りないからわかりにくいのではなく、そもそも意味の連関を宙吊りにするものであり、わかるということ自体を中断している。エステティックとは、頭で考えることを不可能にし、感性を先鋭にする。これがエステティックの批判であり政治である。何かを論理的に批判することではまだ弱い。そうではなく、何かが作用しているところの意味の連関を宙吊りにし、不気味で無意味なものをつきつけ、世界を喪失させることを狙う。京都クリエイティブ・アッサンブラージュでは、京都市立芸術大学主導でアート演習を実施しているが、アートの実践はまさにエステティック・ストラテジーの根幹でもある。

エステティックの批判、政治を通して敗者を救済することはが重要である。これは必ずしも、LGBTQやシングルマザーのように社会から排除された人々のことだけを言っているのではない。あなた自身の中に何か言えない、見えない、感じえないものがあるということだ。例えば優れた映画が時代を画すとき、多くの人の中に言えなかったこと、見えなかったことが明らかにされる。私たち自身のあらゆるところに、聞かれない声、見られない身体、感じられない存在がないだろうか。敗者とは、具体的な人のことだけではなく、そういう感性的な水準で消し去られているものである。そしてこの水準で救済が起こるとき、本当に排除されている人々が救済される。しかし救済は無意味を意味の連関に含めることではなく、無意味自体を表現することである。外部への排除は内部の成立に必要なものであり、ただ新しいステークホルダーとして含めるというように、排除を単純に内部に包摂することなどできない。

イノベーションはものごとを軽くすることで生まれる。「本物」のアイデア、物事の「本質」、「真」の問題を求めようとすることは、創造性から遠ざかることである。本物を主張することほどダサいものはない。本物によりかかろうとするとき、新しいものを創造するのではなく、本物などない現実において安心を求めているにすぎない。ガブリエル・ココ・シャネルはガラスや人工真珠を使って偽物のコスチュームジュエリーを作り、新しい時代をつくった。本物の宝石をじゃらじゃらつけることで本物だと思っているとしたら、それこそが下品であるというのだ。それでは自分のスタイルを生み出しているとは言えない。表象から排除されたものを取り出すとき、既存の秩序の重さは解体され軽くなる。軽くなるとき、新しいものが生まれる。偽なるものが持つ最高の力である。

なぜ社会批判が価値創造となるのか? それは、ニーチェの意味における価値転換を伴うからである。それまでの価値基準を転換させることで、それまで劣っていたもの、悪であったもの、排除されてきたもの、つまり敗者こそが価値であることを見せることになる。既存の価値基準に留まったまま、「敗者なのにいい」という提案が多い。既存の基準で劣っているのだが、「でもいいところがあるよ」というわけだ。しかし、価値基準を転換し、「敗者だからいい」と示すことが重要である。過去に時代を決定づけた価値創造は、このような価値転換をなしてきた。マイナーになることが大きな価値を生み出すことにつながる。

もちろん、エステティックな水準で戯れるだけで、実際の問題解決をしないというエリート主義を推奨するものではない。実は、エステティックな水準に関わることが、問題の解決になるのだ。逆に、感じ、見て、語れるものだけで問題解決しようとすることは、暗黙のうちに排除を温存する。私は、ひとつの時代を切り開く映画を、価値創造のモデルとして考える。映画は時代の表現であり、政治的でもあり、なおかつ人々を魅了し利益を上げる。映画は今まで語ることも、見ることもできなかったもの、つまりシステムの中に表象されなかったものを表現することで、人々に新しい自分たちの可能性を提示しようとする。いや、むしろそのような可能性がないこと、つまり無意味を提示する。人々が見ようとして見なかったものが、見えるようになり、居心地の悪さを感じる。しかし、そこから今までの時代が急速に古くさく感じることになり、新しい時代の息吹が感じられるようになる。強権的な指導者が映画や文学を徹底的に検閲しようとしてきたのには理由がある。

だから、イノベーションとは社会批判なのだ。今は、持続可能性がメインストリームとなり、大企業が悪のように扱われている。企業がイノベーションを起こし、利益を上げることが悪であるかのようだ。それは、大企業が主役の高度資本主義が社会の格差を広げ、環境を破壊してきたという事実からすると当然であると思われるかもしれない。これは資本主義に対する外部からの批判である。しかし、歴史上イノベーションは、むしろ社会への内部からの批判なのであり、だからこそイノベーションとなってきたのだ。資本主義に対する批判が、資本主義内部において成功することへの近道である現在、むしろ内と外を攪乱する微妙な実践こそが重要であるように思う。

すでに何度も説明してきたように、マクドナルドは、旧来の居心地はいいが偏見に満ちた閉塞感のある社会への批判であった。60年代の劇的に変化する社会を表現したのだ。1971年に立ち上げられたスターバックスは、自然の美味しい豆を焙煎して味わうことを提案したが、コーヒーが工場で大量生産される資本主義システムへの批判であり、同時期に世界的に盛り上がったカウンターカルチャーの表現のひとつであった。1987年にハワード・シュルツが作り変えたスターバックスは、濃いコーヒーをちびちび飲む男性的エリートの文化への批判であり、80年代的な、開放的で民主的な文化を表現したのだ。この民主主義は、当時の新自由主義の軽くナイーブなところを引き継いだ。90年代末から始まるスティーブ・ジョブの革命は、社会の厚みがなくなる2000年代に、カウンターカルチャーが持つ社会の彼岸の感覚を呼び覚まし、それを薄く直線的でフラットな、軽いものという厚みのなさによって向き合う方法を見せたことが重要なのだ。

これら全ての企業事例を批判することは重要であるし、事実私はこれらの事例について自分なりの分析をすることこそが批判だと考えている。しかし、それらが資本主義の原理に従って人々に悪い商品を売り付け、利益を上げているだけだと考えるなら、その批判は見当違いであり、むしろ成功した人に対するルサンチマンのように聞こえなくもない。それでは新しい価値は生まれない。

そしてこれは企業だけの話ではなく、社会運動も学問もすべて、時代を表現する映画のように既存の感性的な秩序を解体し、批判を通して価値を創造しなければならない。企業も、エステティックの水準で価値創造を考えるなら、もはやこれまでのような2000年代的な新規事業開発を狙うという姿勢を捨てなければならない。社会課題解決というようなきれいな言葉に変えても同じである。重要なことは、新しい世界観を提示することであり、そのためには表象されえない敗者をなんとか表現し、それこそがカッコいいことを示すことである。

だからこそエステティックは戦略=ストラテジーと結びつく。ストラテジーは儲けるための方策ではなく、自分を提示する実践である。価値創造は、新規事業のアイデアを練ることではなく、自分、自社、そして社会がどうあるべきかを提示することである。エステティックな水準で価値を創造するということは、自分を解体し提示することだ。これをせずに、儲かるように新規事業を立ち上げるというのは、偉そうにしている大学教授のようなものである。

現在は批判が陳腐になり、例えば野党が発言しても人々に響かないのは当然である。それはこのような批判が、自分を特権的な外部の位置に置いてなされるからである。ジュディス・バトラーは、虐げられた人々の権利を擁護するアイデンティティ政治に反対する。それは従来の関係を逆転させるだけで、そもそも問題のある構造を強化することに加担してしまうからだ。むしろ、メインストリームの人々のアイデンティティが、排除された存在に暗黙に依存しており、それ自体もろいものであることを見せることが重要であり、だから単純に批判するのではなく、逆に排除をパロディ化し極端に演じることで、自分自身の信じる表象のシステムが空虚であることを感じさせることの方が求められている。つまり、表象のシステムに関するその外部からの批判ではなく、そこからはみ出ているものを内部に表現することによるシステム全体への内部からの批判である。

イノベーションは新しい意味を創出することだと言われる。しかし、もしイノベーションが社会批判であるなら、むしろ意味の連関の中で表象できないもの、つまり無意味を捉え、それを表現するという不可能なことをしなければならない。意味がないものとして捉えられているものを感じることができるようにすること、これが歴史をつくるイノベーションに求められることである。だからこそ、無意味のイノベーションが必要なのだ。新しい意味はそこから生み出されていくかもしれないが、そのような意味は、無意味の核に依存している関係のひとつの表現である。無意味とは、別の観点にずらして新しい方向から見ることではなく、あらゆる関心を宙吊りにすることであり、エステティックそのものである。アート思考とはまさにこのイノベーションのことである。

そして、逆説的なのだが、無意味こそが私たちの欲望を構成する。無意味とは、意味の連関から排除されていること、表象のシステムからはみ出ること、社会が不可能であることである。社会はきれいに意味のシステムで閉じられることはない。私たちの欲望は、このシステムからはみ出る謎、無意味、不可能性によって駆り立てられている。例えば、男性、女性という「正常な」性を持つ人々が、常にレズビアン、ゲイ、クイアなどの身体を吐き出し排除することで自身の身体の確実性を確保するのだが、同時にその吐き出した身体の魅惑に取り憑かれている。だからこそそれらの身体を異常に嫌悪する。批判とは、このクイアな身体を代理表象し救い出すことではなく、むしろ正常な性がその亡霊に依存していること、つまり自身の不可能性を見せることである。マクドナルドがなぜ私たちを魅了しつつ、嫌悪を覚えさせるのか、むしろ嫌悪させるからこそ魅了されるのかを考えてみて欲しい。

つまり、資本主義は欲望をつくり上げ、利益を上げるという主張は正しい。しかし、それは私たちが求めるものを満たして幸せにしてくれるという意味ではなく、無意味の核が私たちを脅かし、駆り立て、解体しようとすることを享楽するという意味である。必要なのは、欲望という俗っぽいものを否定し誰もが賛成するキレイなパーパスを作ることではない。パーパスを解体すること自体がパーパスでなければならない。そのときパーパスは欲望の表現となる。カッコよさとは、見かけが整っているということではなく、無意味を前景化し、社会を解体する動きに生まれる。イノベーションとは、この意味での欲望を生み出すものであり、だからこそ社会批判であり、開放の可能性であり、新しい歴史の創造であると言えるのだ。素晴しい映画が成功し利益を上げるのと同じように、イノベーションは利益を生み出すだろう。そして批判されるだろうが、批判されることを祝福すべきである。