京都クリエイティブ・アッサンブラージュを進める中で、持続可能性について聞かれることが多くなってきました。第二部をご担当いただいている京都工芸繊維大学の水野大二郎先生は、人新世におけるデザイン、サーキュラーデザイン、スペキュラティブ・デザインなどを推進されていますが、私が書いてきたこと(つまりエステティック・ストラテジー)とどのように整合するのかが見えにくかったところがあります。今回はそのあたりをご説明したいと思います。エステティック・ストラテジーの考え方については、前回の記事をご覧ください。


環境の問題は重大であり、解決しなければならない。しかし、そのためにどういうアプローチが求められているのか? 自然を守るという考え方は人間中心主義の欺瞞であり、場合によっては自然を破壊するという考え方よりも厄介である。人間に解決できると信じることは、人間が問題を解決してあげるという上から目線を維持することに他ならない。

そもそも人新世の問題は、資本主義、産業革命が進んだ近代という時代に、人間が自らを中心に据えて、そうでない自然をあちら側に据えて利用し、消費し、時には賛美してきたことに由来する。だから、人間が自然を守るというような問題ではなく、そもそも人間には何も解決できないことを理解することが重要である。つまり、自然を守るという上から目線は、問題の元凶である人間中心主義を解体するどころか、それをより強めてしまう。サステイナブルな商品を作ることは重要な取り組みであるが、解決にはならない。

自然とは人間の手がつけられていない状態であり、私たちをやさしく包み込む母体という理想は、人間が勝手に押し付けたものである。それは無限の神に代わり世界の原理となった人間が自分の中の空虚さの感覚、自らが生み出した資本主義や産業革命によって分断された自己を、原生な自然に依拠して癒そうとしたものである。つまり自然は美しく無垢ではない。それは人間がそのように期待し、神秘化しているにすぎない。またそれだけではなく、自然とは規範である。「そうすることが自然だ」「それは自然な考えだ」というとき、私たちは規範としての「あるべき姿」を主張している。不自然なことは嫌われる。つまり自然とは人間の願望の代理として打ち立てられた。

そのような自然は存在しない、とティモシー・モートンは主張した。意味とは人間が勝手に与えたものでしかない以上、自然には意味がない。つまり、自然は無意味である。自然は、私たちによる意味の連関である「表象」からはみ出るものである。理解不可能なものなのであって、それを理解できる、守ることができると感じているなら、それは何か違うものをこしらえて守ることで、自分自身を守ろうとしているだけである。実は里山は人間による破壊があってこそより豊かになると聞かされて、狼狽えてしまう。自然は人間の思うようにはできないのであり、それは単純に破壊することも、単純に保護することもできない。自然を愛するということは、空気のきれいな森林に癒されるということではなく、ドロドロした真っ黒な得体の知れないものを愛することである。

自然の無意味とは、世界を一貫したシステムに閉じることができない不可能性のことである。環境を守るために人々に行動させることの前に、行動の不可能性に直面しなければならない。飛行機に乗ることを諦めるのか、それともヴィーガンになるのかを選択し、行動すべきだ言われる。ヴィーガンになることは賞賛されるべきであるが、問題をその選択に還元してはいけない(あえて言う必要もないが、だから肉を食べていい、飛行機に乗っていいということではない)。むしろ、選択して行動させる前に、行動できない状況を突きつけるべきではないか。ヴィーガンになったら自分はやるべきことをやったと言えるようになり、気が軽くなる快感がある。

アッサンブラージュとは、この人間中心主義を乗り越えるための概念でもある。ひとりの主体の英雄的行為は、実は様々なものが配置されてはじめて可能になる。この配置がアッサンブラージュである。行為は、ある人に閉じたものではなく、人間や非人間が配置された特定のアッサンブラージュの結果である。人間主体は、アッサンブラージュのごく一部にすぎない。さらに、主体というのは、むしろアッサンブラージュにより生み出されるのであり、主体がアッサンブラージュをつくるのではない。

もちろん、このアプローチも袋小路に陥っているように見えるだろう。人々に無意味を提示するだけで、何らかの行動に結びつかないのであれば、話にならない。ここからもう一歩先に進めなければならない。前回議論したように、エステティック・ストラテジーとは、無意味の核を捉え、表象のシステムから排除されてきた敗者を救済するという不可能な試みである。その時に、新しい時代を表現し、人々の開放の可能性を感じることを可能にし、社会を少し新しい方向に押し出すことができる。持続可能性のためのデザインにおいても必要となるのは、新しい時代を表現することである。既存の感性的な秩序を宙吊りにし、新しい感性的秩序が生まれるためのひびを入れる。

ここではじめて、もう一歩先に進むことができる。無意味な自然という存在は、単に私たちの感性を宙吊りにして脅かすだけではなく、それにより私たちの欲望を駆り立てる。私の興味はここにある。というのは、この欲望を生み出すことにより、より意味のある持続可能性を実現する道が拓ける可能性があるからだ。欲望を構成することで、人々を行動に駆り立てることができる。自然に行動を促す仕掛けではなく、あるいは正しいことのエリート的な選択でもなく、どう行動していいのかわからない宙吊りこそが、人間中心主義を乗り越えるための行動に結びつく。

このとき、私たちは限りなく資本主義に接近する。しかしこれこそが、資本主義を徹底的に批判するための道ではないだろうか。資本主義に資本主義を批判させるというわけだ。罪悪感、義務感を資本主義の中で帳消しするのではなく、それをより拡大していくこと、そして欲望を生み出していくこと。ここに企業が持続可能性に取り組む意味がある。サーキュラーデザインのような事業活動は、企業にとっては取り組みにくいという。既存のビジネス・エコシステムを超越する複雑なものであり、CSRとして赤字でやり続けるわけにはいかないと言うが、逆なのだ。企業は、欲望を消し去りキレイ事で自然を守ろうとするのではなく、欲望を掻き立てるべきである。そして利益を上げるべきである。

言うまでもないことだが、持続可能性のためのデザインは、すでに資本主義に取り込まれている。取り込まれない代替の世界が可能であると論じることは重要であるが、それが不可能であることに向き合うことが条件である。企業が持続可能性のためのデザインを取り入れるために最新の書籍を買い、専門家を招へいし、コンサルティングを受ける。企業はその取り組みをアピールして消費者、そして潜在的な社員を引き寄せる。自らが批判するものに喜ばれているという、この居心地の悪さから目を背けるのではなく、それ自体をデザインするべきではないか。この矛盾から遠ざかり美しい魂に逃げ込むのではなく、むしろその矛盾を逆に遂行する(redoubling)ことが持続可能性のためのデザインである。私が、企業がイノベーションを起こすことを推奨している、そして同時にそれを批判していると理解され混乱されたとしたら、この理解は正しいし、混乱を避けることは正しくない。

ヴィーガンが外国に行って食べるものがなくさまようとき、最後の拠り所となるのがマクドナルドのポテトだとしたらそれは皮肉である。最も人工的で、最も体に悪そうで、最もグローバル資本主義を体現するものが救いとなるのだから。しかしこれが単なる皮肉ではなく理由のあることだとしたらどうか。つまり、マクドナルドのポテトがたまたまヴィーガンの求めるものと合致したというのではなく、もともとヴィーガンはマクドナルドのポテトのようなものを求めていたとしたら。ヴィーガンの人たちはマクドナルドのポテトを前に絶望するのではなく、むしろこの話を楽しんでいる。他に、粉を水に溶かして飲むような完全栄養食もヴィーガンに人気がある。これは持続可能で「自然」にやさしいかもしれないが、あきらかに工場で生産され科学的に計算された「不自然」なものである。ヴィーガンとは離れるが、昆虫食にも何か魅惑がある。単なる合理的なタンパク源ではない。昆虫という、これまで意味の表象から掃き出されてきたおぞましいもの、それによる文化=文明化の攪乱が欲望を構成する。つまり持続可能な食は、その世界から排除されたもの、それと相容れないものに魅せられている。

このように自然と科学、自然と資本主義、自然と文化などの二元論が攪乱され、自然という幻想に亀裂が入るとき、私たちは自然を垣間見ることができるのかもしれない。自然を無意味なものとして捉えるということは、このような攪乱から始まるのであり、そこから欲望が生まれる。文化の微妙な色合いを理解し、無意味を意味ある形で表現することが重要なのである。水野大二郎先生が、菌類を培養して形成した生地で高級なバッグを作るというデザインを話すとき、単に「サステナナブルな商品」の話をしているのではなく、菌類という自然、培養という科学、ファッションという文化、ハイブランドという資本主義のカテゴリを直結することで攪乱する実践の話をしているのだ。

視野を広げ、より多くのステークホルダーと向き合い、より大きな視点で問題を解決しようとすることは重要である。リ・パブリックの田村大さんが、靴屋が靴をリサイクルできるように、そのデザインをシンプルにし、また行政を巻き込んで使用済みの靴を回収するなどの仕組みをつくる画期的なデザインを説明してくれた。ここで、この仕組みをつくることで持続可能性の問題が解決できると信じることにつながってはいけない。それまで考慮されていなかったステークホルダーを包摂することは重要であるが、一方でそれが不可能であることも理解しなければならない。なぜなら、排除されたものはまず存在してそれから排除されたのではなく、その存在自体が排除の表現そのものであり、それを排除する自分自身がこの排除に依存しつつ魅せられているからだ。それを単に包摂することは、排除をキャンセルしたという安心感、贖罪の感情となってしまう危険がある。逆に簡単に包摂できるものは排除ではないし、排除は別のところにある。

だからこそ、靴を選んだことが重要である。靴と言えば、Allbirdsは有名だが、元祖TOMS、その他Able, Rothy’s、Vejaなど広い意味での持続可能性を靴によって解決するというプロジェクトは数えきれない。なぜだろうか? それは、大量の靴が捨てられ環境が破壊されていること、その一方で靴を買えない人々がいることが問題であると説明される。しかし、靴というものが欲望、フェティシズムの対象となることと無関係だろうか? 人々は靴にハマり、コレクションし、高額で取り引きする。靴がフェティッシュとなる厳密な理由はよくわからない。悪臭の持つ魅惑、下半身を見たいときにまず足から見るがそこから上を見ることの禁止、あるいは母におけるファルスの不在というトラウマに向き合うための代替物としての足などが関係していると言われれば、読者はあるいは落胆されるかもしれない。いずれにしても靴が、私たちにとっては危険な匂いのする領域であることは確かだ。このような欲望が土台にあるのであれば、欲望を消し去り「正しいことをする」ことを推奨するきれいなシステムのデザインではなく、欲望を増幅させる悪臭を感じさせるようなシステムが重要となる。

田村さんが、巻き込むステークホルダーそれぞれの「プロフィット」ではなく「ベネフィット」を強調するとき、プロフィットという数字で表象できるものから、表象できない無意味を取り出すことが重要であるということが含意されている。ベネフィットとは便益である前に、よい行い(benefactum , benefaction)であり、計算を裏切る概念である。計算に従うなら倫理とはなりえず、倫理のためには、普通ではない過剰が、つまり理解不可能性がなければならない。だから、ベネフィットとは便益を「受ける」ことではなく、よい行いを「与える」ことである。このような理解不可能な過剰こそが、欲望を生み出すのであり、持続可能性への起点となるべきものである。

川地真史さんと田島瑞希さんが運営されているDeep Care Labは「ケア」概念によって、システムによる解決を乗り越えようとしている。人々と関わりあい、影響を受け合い、新しい関係性を生み出そうとする試みである。祖先、仏、アイヌなどを持ち出すことに危険があることは事実だが、それを承知であえて突き進もうとしている。このようなやさしいケアは、ここで説明しているエステティックとは真逆であるように見えるかもしれない。しかしケアとは他者(人間だけではない)へ自分を開くことであり、原理的にはコントロールを放棄し、自分の世界が崩壊することを受け入れることである。以前書いたホスピタリティと似ている(1, 2)。他者とは全く予想できないし、自分を脅かすかもしれない。それを受け入れることはできない。ホスピタリティ(hospes)とは不気味な見知らぬ人=敵(hostis, hostilis)の力(pets, potes)のせめぎあいである。だからジャック・デリダは無条件に他者を受け入れる絶対的なホスピタリティは不可能だという。しかしデリダは、不可能だからこそホスピタリティに意味があるとも言う。不可能性がその可能性の条件だということだ。だから、ケアはキレイ事ではない。ケアとは不可能、無意味であり、エステティックの概念となりうる。

エステティック・ストラテジーの方法論で、人々が同一化するような世界観を描こうという話をすると、それによって企業が儲かるという単純な話しだと誤解されることが多い。そして、そのアプローチは、持続可能性のためのデザインとは真逆で、その敵ですらあると思われたかもしれない。しかし本当は、これらは全く同じアプローチである。エステティック・ストラテジーは、自然を深く愛するエコロジーよりもエコロジカルだというわけだ。