前回は、持続可能性のためのデザインにおいて、自然など存在しないというところから出発する必要性を確認しました。では具体的に何ができるのでしょうか。企業の方々は真剣に持続可能性のために何をするべきかを考えています。しかし、それで生み出されるものが、例えば再生素材を使った商品や再生可能エネルギーで作ったサービスであったりします。利益の一部を持続可能性に還元するというような仕組みは批判されてきて、さすがに少なくなりましたが、それに代わるようなデザインというのはあまりないのが実情です。持続可能性は不可能であるということを遂行するようなデザインはどうしたらいいのか、見当もつかない状態です。

デザインの不可能性に向き合うことが、デザインの可能性を導く

そこで、私たちは何をしなければならないのかを追求しようとしています。つまり「デザイン」を追求しています。しかしそのときの問題は、デザインという概念自体が人間中心的であり、人間による意図的な解決を前提にした概念だということです。解決不可能であることに向き合うなら、デザインという概念を手放す必要があります。つまり「デザイン」概念が破綻しているのです。一方で、だからそれを手放すということは、持続可能性の問題に取り組むことの責任から逃れることでもあります。デザイン概念が破綻しているからこそ、デザインを掲げて取り組む必要があると考えます。月並な言い方をすると、デザインの不可能性が、その可能性の条件ということです。むしろ、デザインの不可能性に向き合うことを可能にしてくれるなら、デザイン概念は有用だと言えます。振り払うことのできない矛盾を振り払ってしまって安心すること、これこそモートンが言う、人間中心の「美しき魂」の欺瞞です。

では、どのようなデザインが可能なのでしょうか? ジジェクなら、自然から手を切ること、自然からより離れることを推奨するでしょう。しかし、もう少しデザインの助けとなる考え方が必要です。実はこれに対する答えを、現時点では私は持ち合わせていません。だからこそプロジェクトを立ち上げ、一緒に議論して作り上げていく方々を探しています。いくつかのヒントがあります。

「罪悪感」を高めて行動を促すことは有効に見えますが、あまりよいアプローチではありません。罪悪感は、少し上から目線なので距離を作り出していると同時に、罪悪感を消すことができるという希望を内包しているという意味で、この距離を温存しています。「恐怖」というショック療法も、後退りし恐怖の対象に近寄れない距離を広げてしまう限りで、いいアプローチではありません。この恐怖が、「変なもの (weird)」に転じるようなデザインが必要です。そのために、モートンは「おもちゃ」が重要だと言います。おもちゃは、それを信じなければ楽しくないのですが、同時にそれが見せ掛けであるという二重性を呈示します。真剣であり、真剣でないことが同時に起こるようなデザインは、美学化の距離を混乱させます。何かアクションをしたとして、次の瞬間にそのアクションを裏切るような意味が出現するようなデザイン、あるいはひとつのアクションが是であり非であるような「冗談」のようなデザインなどが重要となるのではないかと思います。笑いや遊びが、振り払いたいものを振り払うようなキレイなデザインを攪乱するからです。

さらに具体的にモートンが参照するのが、ノワールという形式です。1950年代にアメリカで作られたフィルム・ノワールと呼ばれる映画の形式がそのひとつです。つまり、自分は事件を解決するつもりであった探偵が、自分がその事件の当事者であることを知ります(自分が犯人であるなど)。人造人間(レプリカント)を殺害する(引退させる)特殊部隊を描いた『ブレードランナー』(1982年)は、このノワールのSF版です。つまり、自分は人間だと疑うことなくレプリカントを殺してきたが、最後に自分もレプリカントであることを知ります(『2049』ではこの構造が反転させられ維持されています)。自分は関係ないと思っていたということは美学的な距離を作っていたわけですが、それを消滅させるのです。もちろん、ブレードランナーには観客がエンターテイメントを見ているという美学的距離を乗り越えることができていない限界がありますが、無意識に根差した映画は観客を巻き込むことができるメディウムですので、この可能性は検討していきたいと思います。

矛盾を避けるのではなく、突っ切る

ここで、私たちのエステティック・ストラテジーがより重要になると同時に、それも持続可能性の考え方から学びより深めることができるのではないかと思います。つまり、意味のシステムから排除された敗者を救済するという私たちのアプローチは、私たちが目を背け、向き合うことに恐怖するような無意味の敗者を感じ取り、救済するためになんとか表現していくことを意味しています。自分を成立させるために掃き出す気味悪いものが「アブジェクト」と呼ばれるものであり、モートンはそれを振り払い否認することを避けるための方法を追求しているのです。私たちも、敗者の救済というとき、敗者を救済することが不可能であるという前提で議論しています。意味のシステムを成立させるために排除したものですので、もし簡単に救済できるようなものなら、それは敗者=アブジェクトではなかったということです。

つまり、敗者の救済は、持続可能性と同じように矛盾を振り払うのではなく、矛盾に向き合い、矛盾を突っ切ることを意味しています。そして、この矛盾が魅力になるのです。私たちはこのようにドロドロし気持ち悪い自然に魅せられてもいます。糞尿のようなものは、見たくないと言いながらちらりと見てみたいものでもあり、あるいはアートにおいては魅力的な題材となります。トイレで流してしまい自分の糞尿と手を切ることはエコロジカルではないわけですが、同時にこの手を切れないところに欲望の可能性があると言えます。時代を画すような映画は、何かを解決してしまうのではなく、気持ち悪さを残した形で終りますが、それは矛盾と向き合うデザインだからであり、だからこそ人々の欲望を深め時代の表現となるのです。ブレードランナーのようなものこそ人々を魅了するのです。求められているのは悲劇かもしれません。デザインにおいて、このように利用者を巻き込む形式を追求することができるのではないでしょうか。

なお、エステティック・ストラテジーは、自己表現を強調しています。人々を新しい世界に連れ出すことによって、自己表現の可能性を感じるとき、人々が熱狂し社会が変わると説いています。これはモートンの言う、美学化する距離であり、自己を表現する消費主義の典型であると批判されるように見えるかもしれません。実は、私が自己表現という言葉で考えてきたのは、まさに美学化する距離の攪乱のことなのです。というのは、私たちが考えている自己表現は、自由に自分を表現するというようなキラキラしたものではなく、絶対的な他者への同一化なのですが、それはドキドキするコワいプロセスです。私たちが時代の表現という言い方をしてきたのは、まさに人々が時代に忘れられる恐怖に向き合い、新しい時代に足を一歩踏み入れるトラウマ的体験が重要だという意味であり、この自己表現は他者に必死に同一化しつつ、少し息をつくことができる微小な距離を獲得することなのです。そしてこの成功することのないトラウマ的体験は、どこかエロティックであり、私たちを魅了するのです。モートンが強調するように、消費主義が問題であるとしても、それをきれいに振り払うことはエコロジカルではありません。

以上のように、デザインの可能性を追求することは可能であると思います。しかし、この探求はまだ始まってもらず、ほとんど議論されていません。京都クリエイティブ・アッサンブラージュでは、一緒に新しいデザインを探求しようという方を募集しています。