現在は持続可能性が経済活動の前提となっている時代です。しかし、持続可能性を、単に自然を守る、リサイクル素材を使うなどの問題に落とし込んでしまうと、持続可能性の問題から目を背けていることになってしまいます。持続可能性を考え抜いたとき、どういうアプローチが必要なのかをまとめてみました。2回に分けてまとめたいと思います(後編)。

持続可能性に関する私たちのアプローチは、新しいデザインの可能性に関わります。私たちのエステティック・ストラテジーは、持続可能性とは別の観点から作り上げてきたものですが重なる部分が多く、より方法論を深め強化することにつながりました。

「自然」は人間による近代の発明品

持続可能性は、基本的には「近代」という時代と結びついた問題です。人新世は近代による機械化や資本主義の発展から始まります。近代は18世紀後半から始まるひとつの時代と考えられますが、その特徴は神のような超越的な原理への信憑性が失われ、それに代わり人間が外部に頼るのではなく内面に向い、人間を中心原理として打ち立てたということ、つまり人間中心主義が根源にあります。この人間中心主義が、自然の破壊を進め、現在限界に直面しているということです。だから人間に特徴的であるという意味で、人新世(anthropocene)という名前で呼ばれることがあります(地質学的なディベートは置いておいて)。

この近代の人間中心主義の問題をつきつめて考える必要があります。近代が始まったのが、資本主義と産業革命が発展し始める1780年代ぐらいですが、同時期に啓蒙主義とロマン主義という2つの対立する大きな変化に関わるということが重要であるように思います。啓蒙主義は、有限である人間が世界を構成すること、義務に忠実になることによる自由を説きました。同時期のロマン主義は、この啓蒙に反発しつつ、啓蒙の厳密な論理に収まらない人間性や情熱、人間が世界から距離を取るアイロニー、そして自己を表現することを強調しました。

エコロジーの論者であるティム・モートンは、ここに持続可能性の問題を設定します。人間が自身を中心に置き、それ以外のものを自然として「あちら側」に置いてきたということです。あちら側に置かれた自然は受動的なものだと捉えられ、科学技術による観察、介入、破壊の対象となってきました。しかし、モートンにとっての問題はそれよりも根深いものです。むしろ、自然をあちら側に置き、人間が近代という怪物の中で疎外、分裂されていくなかで、自然を癒しの源泉として、ある種の母性として崇拝してきたことが問題であるということです。つまりこのような自然概念は人間による近代の発明だというわけです。自然は人間の都合により神聖化されたものであり、本来自然は存在しないということ、つまり「自然なきエコロジー」を提案しているのです。自然を守ろうという主張が人間中心的であることを理解しなければなりません。

なぜこの自然概念が問題なのでしょうか。それは、自然をあちら側に置き崇拝することこそが、人間中心の枠組みを強固にするからです。この人間中心の枠組みの中から、人間に持続可能性が達成できるという考え方が生まれますが、持続可能性は達成できないことに直面することを否認することになります。問題を解決しようと何らかの選択をするとき、私たちはその問題をあちら側のものとして立てます。自分はそこから離れた安全な位置から問題を解こうとします。しかしそのような解決が不可能であることを理解するところから始めなければなりません。持続可能性は人間に実現可能な何らかの状態ではなく、実現できてはいけないのです。だから、自然なきエコロジーは、憂鬱な「ダークエコロジー」なのです(「ディープエコロジー」ではありません)。

例えば、サーキュラーエコノミーを実現するということは不可能です。もし消費されたものが100%循環されるということが実現されるなら、人間が消費をすることが問題ではなくなります。サーキュラーエコノミーは実現できないからこそ重要なのです。あるいは、スーパーでエコバッグを持ってきた人が正しく、プラスチックバッグを購入した人はよくないと言えないところがあります。エコバッグを持ってきたことで持続可能性に貢献したという感覚が生み出されるなら、プラスチックバッグを購入したことで罪悪感を感じエコロジーへの責任をより深めるよりも、問題を悪化させている可能性があります。現在の持続可能性の議論は、エリート的な選択の問題に還元されることが多いのですが、これでは問題から遠ざかってしまいます。

エコロジーを考え抜く

モートンがロマン主義を問題にするとき、それを消費主義と結びつけます。何かを消費するということは、人々が自分を表現することであるからです。この批判は、例えば、環境によいことをすることがファッションとなっていることの批判と言えば、わかりやすいかもしれません。エリート的な選択は、エリートだという自己表現と結びつく消費主義なのです。スラヴォイ・ジジェクが言うように、エコロジーが「大衆の新しい阿片」であるという話しとつながっています。エコロジーの問題が本来は人間にはどうすることもできない強大なものであるとき、別のフェティッシュを据えてエコロジーに向き合うことを否認するということですが、余計にエコロジーの問題を悪化させているということを示すものです。

モートンが批判するのは、人間が導入する美学化する「距離」です。人間が自然を崇めるためにあちら側に据えたときに作り出した距離ですが、同時にこれは人間が自分たちを特権化することです。そして自分を反省して自然を大切にしていると見せかけながら、中心に据えた自分を表現する消費主義だということです。ロマン主義が持つアイロニーは、人間の自己表現となるわけです。だからこそ、エコロジーを考えるにあたって、「自然は存在しない」というところから出発しなければならないのですが、それは自然は重要ではない、森や木や動物がいないということではなく、人間による勝手な美学化(神聖化)を乗り越えるという意味です。自然は美しい母性だとして愛するのは、自然を人間として見立てているのです。自然をどろっとした黒い物体として愛することができるか、自動機械として愛することができるのかを問わなければなりません。

このように、持続可能性の問題が人間中心主義に関わるなら、持続可能性のためには人間中心主義を乗り越えることを考えなければなりません。しかしこのように乗り越えること自体が人間中心的であるという問題に向き合うというやっかいな問題があるのです。自然なきエコロジーにおいては、エコロジーのためによりよい選択をすることよりも、選択の不可能性に向き合うことの方が重要なのです。もちろん、プラスチックバッグは使ってはいけません。それを使うのかどうかという選択の問題ではないということです。それは矛盾だと言われるかもしれませんが、この矛盾こそが重要なのです。このように振り払うことができない気持ち悪さ(アブジェクト)を否認する動きはすべてエコロジカルではありません。例えば、産業革命、資本主義がやってくる前の原始的な状態を理想化して戻ろうとする動きや、植民地化される前の原始的状態を理想化する動きは、このように振り払うことのできないものを振り払って否認しているという意味で、実はキケンなのです(モートンならナチズムと同じだと批判するでしょう)。被害者として主張するのが当然で正当だとしてもそうなのです。

それでは、持続可能性のためにどういうデザインが可能なのでしょうか? それを次に考えたいと思います。