前回は、欲望のひみつについてご説明しました。ひとびとのニーズや欲求を満たすことや、素晴しい体験を実現することだけでは、欲望は説明できないという話しでした。しかし、欲望を増幅させるだけでは、本当の意味で人々を熱狂させるイノベーションにはなりません。そこで欲望に関する議論を少し進めたいと思います。
欲望を越えた欲望
結論から言うと、私たちは欲望を越えた欲望を持っています。享楽(フランス語のjouissance, 英語のenjoyment)と言います。これは自己犠牲を伴うような欲望です。どういうことでしょうか? 私たちは意味のシステムの内部で、自分に関する意味が与えられるのですが、この与えられた意味には何かうそっぽさを感じます。与えられた意味は、排除を隠した上で成立しており、それは本物ではないという感覚が付き纏います。排除して見たくない無-意味に気付いているのです。例えば、古い言い方をすると、学歴社会や出世街道などに乗って進んでも、それでは本当の自分を感じられないなどということがあります。
そこで、本当の自分を知るためには、意味のシステムの外に出なければなりません。しかし、この外は意味が与えられないので、意味不明で怖い領域です。人が何か得体の知れない外部の深淵を垣間見たとき、それに魅せられるということがあります。そこに外部があることを知ってしまったら、それが危険であるとわかっていても見たくなってしまいます。その危険から目を逸らせて安全な生活を選ぶと、その後でずっとあの深淵は何だったのだろうかと悩まされることになります。
映画『マトリックス』でモーフィアスがネオに青いピルか赤いピルのどちらかを選択させます。青いピルを飲めば、意味のシステムの中で安心して生活できるのですが、「真実」はわかりません。赤いピルを飲むと、「穴の奥底」を見ることになります。意味のシステムの外を見ることになり、もう後には戻れなくなります。意味のシステムの外側に入るということは、無-意味と向き合うことになり、意味のシステム自体を信じることができなくなります。それは危険なことですが、それを欲望してしまうのです。もちろん意味のシステムの外部にあるのは、無-意味であり、答えではありません。しかし、この危険を犯すときに、たとえ空虚であるとしても本当の自分を感じることができるのです。
自由とは
享楽は、自由に関わります。アレンカ・ジュパンチッチによるカントの自由の説明を見てみましょう。カントによると、自由とはやりたいことをすることではありません。やりたいということ自体は、何らかの欲求に導かれて行動しているだけで、むしろ自由ではないのです。欲求はそれが体内における作用なのか、体外からの刺激なのかに関わらず、主体にとって外部から由来するものです。欲求に行動させられているなら、自由ではないわけです。このような自由は、外部の影響が入り込んでいるという意味で「病的」と言われます。
それではこの病的な要因を排除していったらどうなるのでしょうか? 突き詰めると、道徳律に従って道徳律のために行動すること、これこそが自由ということになります。その道徳律を、例えば神などの指示と捉えればそれは病的です。外部から動かされているからです。あるいは、道徳律を守ることで、他の人も同じようにしてくれるだろうと期待しているなら、それも病的です。あくまでも道徳律のためだけに道徳律を守らなければなりません。そのとき、人は本当の意味で自由となります。「しなければならない、だからすることができる」というのは、義務として「しなければならない」とき、それを「することができる」自由があるということです。
このように義務のために行動することは、ある種の過剰を意味します。合理的な説明を越えた不可解なものがあります。ここでカントの例を逆転させて考えることが面白いと思います。カントはどうしても一夜を共にしたいという異性がいて、そのチャンスがあると仮定します。しかし、その情事の後で家の外に絞首台があって死刑にされるとわかっているとします。カントによれば、みんなこの情事をあきらめるというわけです。しかし本当に自由な人であれば、むしろ死刑になってもこの情事のチャンスを摑まなければなりません。逆に、死刑になるからこそ、そうしなければなりません。そのときに本当の自由であると言えます。
享楽の倫理
マイケル・マン監督の『Thief』という映画があります。プロフェッショナルの泥棒の主人公が、自分がようやく手を洗い引退できるという直前で、ギャングの親玉にはめられて、完全に支配下に置かれてしまいます。そこで復讐をするのですが、そのとき自分が人生をかけて求めてきた妻と養子の家族を「出て行け」と冷淡に捨てます。自分が夢みた家や、築いてきたビジネスを爆破します。自分の全てを破壊してから、復讐に向かうのです。なぜでしょうか? この復讐が純粋に復讐のためだからです。自分が夢や成功をつかむためではなく、その後の人生のためでもなく、復讐のために復讐をするという倫理的で崇高な行為を遂行するのです。病的なものを全て排除するのです。このとき本当に主人公は倫理的で自由となります。
もしそうであるならば、この義務のための義務は、自由であると同時に倫理的であるわけですが、それは非合理な狂気の行為でもあります。これこそが享楽です。主体がこの自由を享楽しているのです。ここに過剰があります。この過剰こそがラカンの言う剰余享楽(plus-de-jouirあるいはsurplus-enjoyment)ですが、享楽は常に剰余享楽なのです。死が見えていても一度の情事を選択することは、本当の意味で自由であり、だからこそ倫理的だということになります。ちなみに、このように突き詰めると、倫理的な行為と悪とは同じ構造を持つことになります。悪の主人公が何らかの利益のためにではなく、もし純粋に悪のために悪をはたらく過剰を示すのなら、この悪役の行為は崇高な魅力を発します。倫理的な主体となるのです。
私たちが悲劇を欲望するのには理由があります。それはアリストテレスが言うように、痛みを痛みで昇華するようなことではありません。悲劇は、まさに不可能な自由の選択をせまるからです。自由か死かの選択を迫られますが、ここで自由を選択することは自由ではありません。自由を選ばされている、つまり外部の因果に従っているだけだからです。死を避けるために自由を選ぶことは自由ではないのです。死が見えているにも関わらず、それを選択しなければなりません。悲劇は、このような倫理の深淵を感じ取る形式であるからこそ、人々を魅了するのです。悲劇には崇高なところがありますが、それはこのような無条件の過剰な倫理があるからです。現実的な利益の計算や個人的な幸福を越えた、純粋な自由があるからです。
イノベーションの倫理
本題に戻りましょう。この非合理で自己犠牲を伴う享楽の倫理をデザインすることこそが、イノベーションだとしたらどうでしょうか。つまり、人々に意味のシステムの外部の深淵を見せ、意味のシステムの崩壊を享楽させること、それにより人々に本当の意味での自由を感じる可能性を示すこと、これがイノベーションだということです。このとき、人々が本当の自由を感じ、本当の自分が誰なのかに触れる契機が実現されます。逆に、ひとつの意味のシステムの中で、欲望を増幅させ利益を上げることはイノベーションではありません。欲望の限界まで進み、欲望を越えるときイノベーションが起こるのです。
もし単に高邁な精神から、意味のシステムを解体しようとするような政治であれば、社会は変わらないし、歴史は作られないでしょう。人々に正しいことを提示しても、誰も熱狂しないでしょう。しかし、もしこれを人々が享楽するとしたら、そのとき人々は熱狂し、社会は変わる可能性があります。だからこそ、私はエステティック・ストラテジーに享楽の概念を取り込みたかったのです。欲望は革命的だと、ドゥルーズとガタリは言いました。結果的に彼らとは方向性は異なりますが、欲望を避けた政治や倫理はない、というのは間違いないと思います。
もちろんこれは危険な賭けでもあります。ファシズムは人々に自己犠牲を求め、人々はむしろそれを享楽しました。しかし、ファシズムは十分に倫理的ではありません。ファシズムのように社会を閉じられた空想のもとに統合していくのではなく、むしろ社会の不可能性というトラウマを見せつけるような享楽を追求していくことができないでしょうか。
エステティック・ストラテジーは、このような意味でのイノベーションを実現するための方法を模索しています。何か不可能なことをやろうとしているのではないかと思われたかもしれません。もちろん本当に死をもたらす深淵を選ぶことをデザインするわけではありません。そのような深淵を見せるような悲劇をデザインすることはできます。実際に悲劇は作家がデザインしているのですから。そして、既存の意味のシステムを破壊した過去のイノベーションは、このような「本当の自分」や「本当の自由」を少しでも垣間見ることのできる世界を提示してきたのです。このような深淵を垣間見たいという方と一緒に、このようなイノベーションを追求していきたいと思います。