エステティック・ストラテジーの根幹に「欲望」の概念があります。欲望は悪いものだと思われているので、欲望をデザインするというと、少し誤解があるかもしれません。しかし、私たちはむしろ欲望を積極的に捉えることを提案しています。まず今回は、欲望のひみつを理解し、デザインの意味を捉え直します。そして、次回には欲望のラディカルな政治の可能性について、欲望を越えた欲望としての「享楽」の概念を用いて議論したいと思います。
エステティック・ストラテジーは、イノベーションを「既存の意味のシステムを解体すること」と位置付けます。意味のシステムを温存し、その中でいいものを提案して利益を上げることはイノベーションではありません。そうではなく、たとえ小さなことでも、既存の意味のシステムを解体するようなものであれば、イノベーションであると考えます。これは単純に定義の問題です。
意味のシステムを解体するためには、そこから排除されたもの、つまり意味が与えられない「無-意味」を救い出すことが必要です。無-意味は、意味のシステムを成立させるために排除せざるを得なかったものですので、意味のシステムにとっての脆弱性の点となります。これが意味のシステムを解体するための起点となります。すでに見たユニクロの事例では、間違えた英語が書かれたTシャツを来ている日本人を、ほとんどの人が「恥かしい」と感じたと思いますが、これはまさに既存の意味のシステムからすると「ありえない」ものということです。ユニクロの2006年の転換の背景には、むしろ間違えた英語を着ていることの方がクールであるという既存の意味のシステムの宙吊りがあったのです。詳しくはこちら1/2。
欲望のひみつ
欲望には、欲望の対象があります。食べたいもの、好きな人、買いたいもの、行きたい国などです。しかし、実際はこれらを本当に欲望しているわけではありません。例えば、その対象を獲得したとき、何かがっかりすることはないでしょうか。むしろその対象を獲得するまでのプロセスの方を欲望していることはないでしょうか。欲望の獲得の失敗を欲望していることすらあります。欲望は対象を獲得しても満たされず、むしろさらに増幅していきます。
このややこしい構造をなんとか説明しようとするのが、ラカン派精神分析です。すでに説明したように、私たちが何らかの主体になるとき、トラウマを経験します。社会の絶対的権威からの「よびかけ」にふりむくときに主体になるのですが、まずこれは絶対的な権威であるという意味でコワいものであり、さらにこのよびかけへのふりむきは必ず失敗するのです。失敗というのは、この権威が実際に私たちに何を求めているのかがわからないという謎が残るということです。この謎に駆り立てられていきます。
この失敗に伴うトラウマを隠すように空想が作られます。あたかも、トラウマを見ずに済ませることができるようになっているという意味で、空想なのです。ジジェクの例で言うなら、ナチスドイツにおいてユダヤ人が迫害されましたが、これは調和の取れたドイツという国が不可能であるというトラウマ、つまり人々が理想のドイツ人への同一化が失敗したというトラウマを覆い隠すように、ユダヤ人に責任を押し付ける空想が作られたということです。自分たちが理想のドイツを感じることができないのは、ユダヤ人のせいだとなります。それにより、なんとか調和の取れたドイツという理想を感じる空想を享受したのです。
欲望の原因
しかし、空想は完全には作り込むことができません。トラウマがどこかに綻びをもたらし、世界に何かの歪みが生じます。この歪みが欲望の「対象=原因」となります。人々は欲望の対象を求めていると思っているのですが、実はその欲望の原因(対象=原因)は別のものだということです。この歪みは、欠如という形での対象であり、どこにどのように存在するのかはよくわかりません。ほとんど意識されていないようなものです。
例えば、iPhoneを欲望するとき、その欲望の対象=原因を、iPhoneの箱だと考えることもできます。箱を捨てることができず家に置いている人はかなり多いはずです。人々は、最先端のクールな技術を身にまとい、時代の流れの先端を走っている感覚を欲しています。しかし、2000年を越えて社会が前に進む感覚がなくなり、社会は時代の先端を走っていることを保障できなくなりました。そこで、そのトラウマを覆い隠すように作り上げられた空想の中でとなります。時代の先端を走っている感覚を感じられるのは、iPhoneが箱の中に入っていた不可能な瞬間だけなのです。iPhoneを手に取って自分のものとなった瞬間に、それは時代の先端ではなくなります。この意味でiPhoneの箱は、欠如という形式でこの欲望の原因となっている対象=原因だと言えます。
もちろん、この分析は面白いという以上にはあまり意味がありません。というのは、原因を厳密に特定することは不可能ですし、特定したところで何もできません。重要なことは、欲望を単にニーズを満たすためのものだということを越えて、「欲望の対象」、「トラウマ」、「空想」の複雑な関係に目を向けることができるかどうかです。
デザインを見るのではなく、デザインに見られる
この欲望の対象=原因は、「まなざし」になります。よく利用者がデザインされたものをどう見るのかが議論されます。例えば、利用者から見て使いやすいとか、魅力的であるなど。しかし、重要なことは、利用者がデザインされたものに見られるということです。「まなざし」は利用者の側ではなく、デザインされたものの側にあるのです。このまなざしは本当に眼があるということではありません。安全なところから対象を見ていたと思っていた利用者が、実はその見ていた世界の一部に組込まれている、見ている風景の一部になってしまっているということです。風景の一部になっている様子を、誰かが見ている感覚が生じます。iPhoneの例であれば、時代の先端にいる自分が問題となっているのであり、そういう自分が風景の中にあって見られる存在であるということです。
例えば、アップルの製品には「まなざし」を感じないでしょうか。製品にこだわり抜いた過剰があります。ジョブズが利用者には見えない裏側の配線の美しさにこだわったことは事実のようです。アップルの商品には、普通の商品にあるはず継ぎ目やネジが極端に少なく作られます。アップルの本社のドアノブにも、普通はあるはずのネジがありません。このようなこだわりは過剰となります。
このようにこだわったアップルの商品は利用者の方を見ていないと感じることがあります。よくわからない、どこか別の方向を見ているように感じます。突然コネクタを削除したり、変更したりします。私たちは、アップルはどこを見ているのだろう、どこに行こうとしているのだろうと感じます。これが謎となり、欲望を掻き立てます。そして私たちがその謎に囚われてしまっている限りにおいて、自分が風景の中に取り込まれたと感じます。つまり、利用者の方を見ていないことが、逆説的に「まなざし」となるのです。
私たちが自己表現をイノベーションの核に据えるのは、このまなざしが重要だと考えるからです。このように「まなざし」にさらされるとき、ひとびとは欲望を掻き立てられて熱狂します。単にニーズを満たす、欲望の対象を得るというデザインでは、満たされ獲得された時点で終ってしまい、それ以上に何も起こりません。デザインするということは、利用者にとって新しい意味を提示することでも、利用者にとって素晴しい体験を作り出すことでもありません。利用者にとっての「謎」、つまり「無-意味」をデザインする必要があります。だから、無意味のイノベーションが重要なのです。
しかし、このように欲望を掻き立てるデザインだけでは不十分であることも理解する必要があります。次に、欲望を越えた欲望としての「享楽」について議論したいと思います。