先日、ヨーロッパから多くの研究者が来日し議論をしましたが、アート、エステティックス(美学)の重要性が一貫した主題でした。Stockholm School of Economicsでは、ビジネススクールのトップがアートを中心にしたビジネススクールを作ると言って活動しています。寄附を募り作品を購入し、アーティストに制作を依頼しています。別の友人もLund大学で、Center for Aesthetics and Business Creativity (ABC)を立ち上げようとしています。EUはNew European Bauhausというプログラムで、持続可能な社会を目指してグリーン・ニューディールを進めていますが、技術的な解決を求めているのでなく、「文化」を作ることを狙っています。そのため審美的(aesthetic)な側面が強調されています。EUは、今後自分たちが勝てる領域として、文化や美学から価値を作り出すことに賭けており、大きな投資を進めています。

現在は価値の基準が大きく変化する過渡期です。従来、価値を創造するには「未来」に志向していましたが、今では「過去」に志向するようになりました。Boltanski & Esquerreがエンリッチメント(enrichment)と呼ぶ体制です。現在成功している企業は、例えばLVMHやKeringなどのラグジュアリーブランドのコングロマリットであったりしますが、これらは過去のヘリテージを売りものにしています。もちろん、本当に過去である必要はなく、再発見されたり発明されるものですし、過去そのものではない革新性が必要です。一時期盛り上がったNew Nordicの食文化も過去を参照しつつ、現代的に発明されたものです。こういうものが価値を作り出しています。このエンリッチメントの高まりは、「価値(value)」が問題になり始めた2000年あたりの時期と重なります。市場に流通できないもの、つまり「priceless」に価値があり、使用するとか見せびらかすとかいうことではない、「収集する」という形式(collection form)が重要となってきたのです。使用できるものやニーズを満たすものには価値がありません。もちろん経済格差を利用して儲けるコングロマリットを肯定することはできませんが、価値の源泉が変化したということは直視する必要があります。安西さんと中野さんが説明された、コングロマリットを批判する新しいラグジュアリーブランドも同じように過去を利用し価値を生み出しています。ヨーロッパはこの変化を正確に見ているように思います。

では、なぜ今、アートであり、美学なのでしょうか? 特に、なぜビジネスにとって必要なのでしょうか? 職場にアートがあって触れる機会があると創造性が刺激されるということはありません。アーティストの思考方法を真似して創造的に仕事をしようということでもありません。あるいはアートを理解する教養を獲得すると、世界のビジネスリーダーと議論ができるということはそれほど重要ではありません。もし私たちがアートは素晴しいと神秘化してしまうなら、それはアートから遠ざかってしまっていることになります。

結論から言うと、資本主義における価値の源泉が、資本主義の中心原理である「道具的合理性」を中断する動きに移っているということです。道具的合理性とは、例えば顧客と共に双方の利益を最大化するとか、事業を永続させるとかの「目的」があり、そのために合理的な「方法」を選択するということです。つまり、明確な意味のシステムの中で最適な選択をしていくという論理です。

アートはこのような意味のシステムを中断し攪乱します。アートは、意味のシステムには含まれないもの、つまり「無意味」に向き合います。語り得ないもの、コワくて目を背けているもの、あまりに大きくて捉えられないものなどを表現していくわけです。アートがわかりにくいのは、アートがこの無意味の核を捉えて表現しようとするからです。決して単に美しいものを生み出したり、個人の内面から湧き上がるものを表現しているわけではありません。

このことを理解するために、少し遡って考えてみましょう。アート(芸術)という述語は18世紀中頃に出来上がりました。「アート (art)」は、それまで「わざ」ぐらいの意味で、自由学芸(liberal arts)、職人的技術(mechanical arts)などと同じように使われていました。先日平川先生がご説明されたように、それまで絵を描いていたバロックやルネサンスの画家はアーティストではなく、「絵師」ということです。15世紀あたりから、この絵師が地位の向上を目指し、アーティストとなっていく動きを見せ、近代が始まる18世紀末あたりにロマン主義が埋まれて、アート概念が確立します。1790年にイマニュエル・カントが美学を基礎づける貢献をします。

カントによると美的判断とは、関心が入らないと言います。ここで重要なことは、個人の欲求が入らないだけではなく、道徳的な正しさというロジックも入らないということです。単にその対象を感じて美しいと判断することになります。これは第一批判における概念と結びつく理解とも異なり、概念からも自由な直接的判断です。同時に、第二批判の欲求や道徳的命法とも異なります。この議論を受けて、シラーは「真剣」な衝動から自由になる「遊び」が重要だと言います。遊びとは楽しいということではなく、他のものから切り離して宙吊りされた状態です。これが美ということです。シラーはここに独自の道徳があると言います。形式的な道徳を追求すると、人間は恐怖政治に陥る危険があります。そうではない宙吊りの自由はひとつの道徳でありえるのです。

だから、アートは、意味の連関を中断することで、無意味に向き合います。無意味とは自分が知らないもののことではなく、特定の時代の社会の意味のシステムを中断するものなのです。この意味のシステムの中断こそが、ひとつの強力な批判となります。アートは社会批判ですが、それは権力者の欺瞞を暴くことではなく、それ以前に私たちが当たり前のものとしている意味のシステムの構造を問題にして解体するということです(美の政治と批判)。19世紀に生み出される「芸術のための芸術」とは、芸術は芸術以外の目的を持たないと主張したわけですが、まさに資本主義批判としての社会的アート(レアリズム)とは一線を画し、芸術は直接的な悪者への批判ではなく、意味を中断することによるより根本的な批判を目指したと言えるでしょう。その後モダニズムが自身の原理のみに純粋化していくことになります。エリート主義だと批判される危険すれすれなのですが、これを避ける社会批判は生ぬるいと思います。

意味のシステムは閉じられて安定しているように作り上げられます。特定のイデオロギーがクッションを綴じて縫いつけるからです。しかし、社会は閉じることは不可能です。だから、閉じるときには、排除される過剰なものがあります。この収まりきらない過剰が、無意味の核です。私たちが当たり前のものとしている意味のシステムの構造とは、このように社会を閉じてしまうことです。それを中断することは、社会をもう一度開いていくことですが、だからこそアートは既存の意味のシステムとは別の、新しい時代を表現することができます。アートとしてエステティックとは、この強力な社会批判のことなのです(「美」とは)

このようにアートとエステティックは資本主義を批判しますが、ここでとても奇妙な状況が生まれています。資本主義が、自分を批判するアートやエステティックを必要としているということです。資本主義は、常に市場の外を価値の源泉としてきました。商品となり市場に流通したものには、価値がなくなります。だから、必死で市場の外を追い求めてきました。これまで使われたことのない表現、スタイル、音源、言葉の組合せなどを求めてきました。これが社会の審美化(aestheticization)です。1848年以降に資本が台頭し、世界市場が統合されていく中で、万国博覧会、パサージュなどでエキゾチックな商品の陳列され人々を魅了していきました。そして、1960年代以降の新しい消費者文化の発展によって、いよいよ市場の外部が食い尽くされていきました。90年代にはアフリカ系アメリカ人の方々のストリート文化が商品化され、その後にはアクティビズムが商品化されていきました。

だから資本主義批判がブランドとなります。社会的企業家は、資本主義が生み出した社会問題を解決するという社会批判を表現することで、資本主義の中でヒーローとなります。ESG投資はすでにメインストリームとなり、以前には見向きもされなかった持続可能性から目を背ける企業は正当性を失いました。以前は品質が劣り怪しいとされていたクラフトビールが、大量生産の批判によってオーセンティシティを持ち、大きな市場を作るようになりました。以前は避けられた田舎に移住すること、農業に回帰することがクールであり、新しい起業のモデルとなるのも、資本主義の代替を目指すという同じ動きです。つまり、現在資本主義で成功しているものは、何らかの資本主義批判をする必要があるのです。

そして、ここで重要なことは、エステティックの批判性が価値となってきているということです。つまり、意味のシステムからはみ出す無意味こそが資本主義において、人々を魅了するということです。これはエステティックが資本主義という怪物に回収されていくという、従来からの悲観的なイメージにも見えます。しかし、私はこの社会批判と資本主義の関係をさらに押し進めるべきだと考えています。社会批判をするために、正しい行動をすることでは社会は変えられないし、自身への批判を養分としている資本主義に対して逆効果でしょう。

そうではなく、むしろ社会批判により、人々の欲望をよりかきたてることが重要ではないでしょうか。というのは、欲望とはまさに意味のシステムから排除された無意味によって駆り立てられているからです。無意味とは謎であり、トラウマであり、恐怖でもあります。意味のシステムを宙吊りにするアートの批判が単に正しい社会批判として重要なだけではなく、それが「美しい」ものとして力強く人々を魅了するのは、この欲望に関わっているように思います。人々が見たくないような無意味を見せつけるアートは、人々をひきつけます。見たくないからこそ、欲望を掻き立てるのです。

私はイノベーションとは人々の欲求を満たして利益を上げることではなく、人々に無意味を見せつけることで社会批判をすることだと主張してきました。それがイノベーションになるのは、人々が無意味から目を背けつつ魅せられるからです。人々の欲望の核心にせまってこそ、社会批判となり、イノベーションになるのです。

経営者はこのようなことを理解しなければ、経営の判断はできないのではないでしょうか。経営者に限らず、イノベーションを起こそう、価値を生み出そう、社会を変えようとしている多くの人々も、これを理解する必要があります。しかし、イノベーションやデザインにおいて、全く逆のことが正解として教えられています。消費者のニーズを掴むとか、新しい意味を提案するとか、楽しい体験を作るとか... そのため、私たちはエステティック・ストラテジーという方法論を提案し、京都クリエイティブ・アッサンブラージュを立ち上げました。

京都クリエイティブ・アッサンブラージュは受け入れられる人数に限りがあります。そこで間口を広げ、エステティック・ストラテジーを知ってもらうために多くのセミナーやワークショップを企画しています。ひとまず5月13日に東京で実施します。締切は5月7日です。すでに定員には到達しましたが、もう少し受入れる余裕があります。

京都大学エステティック・ストラテジー「人文学的ビジネスクリエイティブ講座」