ひとがイノベーションに振り向く時
イノベーションが起きるとき、人々はこれまでになかったものに対して、どのようにして価値を見出すのでしょうか?
商品自体が技術的に優れているから、でしょうか?
それとも、安いから、あるいは面白いからでしょうか?
多くの場合、消費者の「潜在ニーズ」を満たしたからと考えられています。
じつはイノベーションというものは、「世界観」の提案なのです。違う言い方をすると、価値だけではなく、その価値を理解するための価値基準(=世界観)も同時に提示しているのです。
たとえば、今でこそアップルといえばすぐれたデザインを持つコンピュータをつくる企業です。アップルがデザインに大きく舵を切ったのは1998年、今も商品名で使われている「iMac」を初めてリリースしたときのことでした。
90年代後半、コンピュータは時代の転換点にありました。それまではコンピュータのCPUも劇的に高速化し、メモリ容量も倍々で増えていきました。MS-DOSからWindows 3.1へ、さらにWindows 95への変化は劇的でした。予算に余裕があれば、より高性能なCPUに変更したり、メモリを増やすことが普通の選択でした。
しかし、IntelのCPUである「Pentium」が「Pentium 2」、「Pentium 3」へと進化した頃、人々はそれまでの劇的な成長に変化を感じ始めました。言い換えれば、人々はコンピュータの性能の成長に、新しさを感じなくなってしまったのです。そんな中、98年に颯爽と登場したのが、ディスプレイ一体型のカラフルなiMacでした。それまでは正面から見たデザインしか考えられていませんでしたが、使われない後面も美しくデザインされました。従来のコンピュータとは全く違う世界観を提案したのです。
このiMacを見たとき、人々は思ったわけです。「性能だけが自慢のコンピュータなんて“前時代的”だ」、「これからの時代はデザインだ」と。
iMacはカッコいいデザインだから売れたというだけではなく、新しい世界観を提示したから売れたのです。
新しい世界観が提示されたとき、ひとは「新しい」と言って振り向きます。そしてその世界観の中で「自己表現」をし始めます。iMacを使うということは、古い90年代と手を切り、来たるべき2000年代の人間を演じることでした。これがイノベーションです。
現代において、世界観をつくる役割を果たすのが、文化です。
そうした文化の特徴をとらえていく上で必要になるのが、人文社会学です。人文社会学はとらえどころのない文化を分析し、評価するために生まれた学問です。今回は、人文社会学を少しかみくだいて、価値創造のための資源として使う方法をお話します。
序列をつくる「力」としての文化
なぜ文化が価値創造で重要になるのでしょうか? 文化の語源を辿っていくと、洗練されていくプロセスを指していることが分かります。これは、序列をつくる「力」と言い換えることができます。
文化の語源は、ラテン語の「colere」に遡ります。もともとは「耕す」という意味を持っていましたが、17世紀に「精神を耕す」、つまり成熟させる、教化する、洗練させるという意味に変化していきました。洗練されるということは、野蛮ではなくなるということです。つまり自分を上位に位置付け、他者を野蛮なものとして自己を正当化する、序列化する概念として使われ始めるのです。そしてこの考え方は、基本的には現代においても同様です。文化という言葉がアートと同様に使われることがありますが(たとえば日本では、アートは文化庁の管轄です)、それはアートには洗練されたセンスを意味する一面があるからです。
社会において、個人は文化を自己表現することで、序列をつくる力を体現しています。たとえば私たちは日本の文化を表現して生きています。それゆえ、自分の文化が否定されるとムキになったりします。外国人から「日本の文化はこうだ」などと言われると、自分のことを言われているように感じ、反論したくなりますよね?
序列をつくる力であるがゆえ、人は自分の文化に対する不安も抱えています。他の文化が存在するということは、自分の文化が否定される可能性もあるからです。他よりも優位に立っているうちはいいのですが、それは自分の地位が脅かされることへの不安と背中合わせなのです。
事業において創出されるものも、単なる商品などではなく、文化です。これらの文化も、人々の自己表現の対象となります。たとえば、レストランやカフェなどのサービスでは、洗練された空間や他にない独特の雰囲気を作ります。人々はそうした文化に同一化することで、新しい自己を獲得した感覚を得ます。前回は、文化の対極にあると思われているマクドナルドのようなものでも、60年代の人々に「近代の確証」を与えた文化をつくったことを説明しました。
文化とは個人の、そして事業や社会の自己表現であり、序列をつくる価値なのです。
正当化の理論と、闘争の賭金としての文化
価値基準を提示するということを、人文社会学はどのように示してきたのか、具体的に見ていきましょう。
アーティストであるクリスチャン・ボルタンスキーの兄、社会学者リュック・ボルタンスキーと経済学者ローレン・テヴノーは『正当化の理論―偉大さのエコノミー』という本で、私たちが日頃何気なく口にする「すごい」がどのように生み出されているかを示しました。
すなわち、社会において「偉大なもの」とされるものは何なのか。彼らが示した答えは、人が自分の価値を表現するためには、単に「自分はすごいぞ」と言うだけでは意味がないということです。価値は基準がなければ、良くも悪くも受け取られません。よって、偉大な価値を示すためには、モノや人が一貫して配置された特定の世界観を作り、価値の基準を提示するべきだとしています。
先述したように、これこそが文化をつくるということです。すでにある基準でつくられた文化は、「どこかで見たことがあるな」と感じられ、人々を魅了することはなく、厳しい競争にさらされ、あっという間に新しさを失います。新しい文化をつくることは、今までの基準とは異なる新しい価値基準を持つ世界観を提案することと不可分です。
続いて、文化を「闘争の賭金」と呼んだフランスの社会学者ピエール・ブルデューについても紹介しましょう。人は文化をつくることで、自分を他者と差異化し、より上位に位置付ける「卓越化」を行います。ブルデューは、「差異化=卓越化」と訳される「ディスタンクション(distinction)」という概念を提唱しました。ブルデューの考え方に照らし合わせると、なぜ「正統文化」というのが一般大衆にはわかりにくいものになっているのかが分かります。
フランスの文化的エリートは、他の人が簡単には真似できない「正統文化」を持っています。正統文化の作法は合理的にはできていません。なぜなら、合理性は効率性を意味し、時間もお金もない労働者の価値基準だからです。正統文化は、合理的ではなく、わかりにくく不自然な作法を身につけるために時間と資金を費やすことに価値がある、という価値基準の上に成立しています。そしてフランスの文化的エリートは、そこで自然と作法に従ってふるまえる自分たちに価値がある、ということを示すのです。
この価値基準は、なかなかハードルが高く、超えられないものです。たとえば世の中には「文化的エリートに憧れる層」がいますが、彼らは背伸びをし、無理をしてでしか正統文化を嗜むことはできません。ぱっと見では真似できていても、非合理的なふるまいを自然にできる時間的、経済的余裕という文化的エリートの本質までは、なかなか真似できません。背伸びをしていては、単なる「文化的エリートの真似をしているフォロワー」であり、差異化=卓越化することができない。正統文化は、非常に巧妙な価値基準の設計の上に成り立っているのです。文化的エリートたちは、こうした文化を作ったことで、自らの力を維持しているわけです。
このように、人文社会学の観点から文化を読み解いていくことで、現在の社会に漠然と存在している格差を分析することができます。
大衆文化の価値基準
価値基準は、大衆文化にも見出すことができます。例えばティーネイジャーのサブカルチャーでは、マイナーな音楽を知っていることが自己表現となり、そうした音楽を聴いていることで、差が生まれます。すなわち、「イケている」・「イケていない」が定義されるというわけです。ファッションでは、この文化が次々と変化します。昨年までイケていたものが、今年になるとダサくなるというわけです。価値基準が1年でまるきり変化しているのです。今の若者が突然ノンアルコール、ヴィーガン、筋トレに魅かれるのは、健康を気遣っているからではなく、ファッションだからですね。
ちなみに、金銭で人の価値を計ることも、ひとつの文化であり、自己表現です。たとえば、80年代に金融で稼ぐことが価値であった時代がありました。87年のオリバー・ストーン監督の映画『ウォール・ストリート』でゴードン・ゲッコー(マイケル・ダグラス)が「欲は善だ」と表現したような世界です。このような価値観は批判の対象になっていますが、80年代に浸透した新自由主義は、それまでの支配構造に対する意義申立てだったのです。生れや教育でエリートになり支配層を形成していく従来の社会に対して、自分の力で稼ぐことで自分を証明することは、まさに反エリート主義、自由主義でした。
同じように、1776年にアダム・スミスが『国富論』で、それぞれが自らの利益のために行動する世界を示したとき、人々が作り出す富を中央集権的な君主から守る自由主義を意味したのです。そうした価値基準がつくりあげられたことで、人々が金銭によって自己表現することが可能になったのです。
そうした文化が批判され、現在は逆にSDGs、ESG投資、カーボンニュートラルの実現などに企業が力を費やしていますが、これらも文化であり、自己表現です。余談ですが、2010年の続編『ウォール・ストリート』で、こうした資本主義と持続可能性の葛藤がうまく表現されています。たとえば、企業が単にカーボンニュートラルを実現したと発表しても、人々からそれほど大きな価値であるとは認識されないでしょう。この文化は資本主義の論理や自然と人間の二元論という既存の枠組みを攪乱することを価値としているのであって、カーボンニュートラルという枠組みの中で勝負をしている姿は価値があるとは映らないのです。こうした領域でこそ、既存の文化の中で価値を示すのではなく、新しい文化をつくらなければなりません。この点については、また別の機会で詳しく議論したいと思います。
歴史をつくるイノベーションは、次の時代を表現することです。これは、新しい価値基準を提案することです。そして、人々に新しい基準で自己表現することを可能にします。そのようなイノベーションは、単に消費者の潜在ニーズを満たすことや、美しいものや格好いいもので人々を魅了することでは生み出せない、大きな価値となります。
次回は、特に文化的エリートに着目し、近年新しい動きを見せるポストラグジュアリーの動向をお話したいと思います。