京都クリエイティブ・アッサンブラージュの修了生主導でカンファレンスを実施していただきました。その場で、水野先生が翻訳を監修されたA. エスコバル『多元世界に向けたデザイン』(水野大二郎, 水内智英, 森田敦郎, 神崎隼人,監訳, BNN)についてポッドキャスト「敗者のつぶやき」(Apple/Spotify)の公開録音をしました。そのときの話しを文章でもまとめておきたいと思います。
存在論的デザインとは
存在論的デザインという言葉が出てきますが、明確にそれが何なのかは説明されておらず、読者はもやもやしながら読んでいるのではないでしょうか。4つほどの意味を、整理したいと思います。
一つ目は、デザインの影響が、単に問題を解決するとか、効率化するとか、感動をもたらすというだけではなく、世界を変容させるという意味です。デザインの存在論的帰結と呼ばれている側面です。存在論はざっくり言うと、私たちが普段特に考えず、自然に自分の存在の一部として受け入れているもののことです。当たり前になっている自分の世界そのものがデザインされるということです。
二つ目の意味は、デザインが前提とするカテゴリや枠組みを問い直す必要があるという意味です。存在論は、上記のように考えることなく、自然に自分の一部として受け入れているものですので、それを問い直し、デザインをより根源的に捉えようというものです。存在論というとより根源的なニュアンスがあるので、そういうことを言いたいのだと思います。自分の一部となっているものを捉え直すので、デザイナーの存在自体を問い直すという議論になります。
三つ目は、人間をデザインする、「人間を再発明する」という意味です。ハイデガーが言う存在論は人間存在に関わりますので、ここで人間あるいは人間性のデザインという意味を帯びます。ハイデガーが言うように、私たちの存在は世界に投げ込まれていてどうしようもないのです。単にデザインしたものにデザインされるというだけなら当たり前なのですが、それが人間と世界がどうしようもなく絡み合っているという意味で、存在論的だということだと思います。
最後に、人文学的では20年間ほど、認識論(epistemology)から存在論(ontology)へ移行しようということを議論してきました。この文脈では、現実が向こうにあって、それを人間が表象(認識)するとき、視点によって見え方が違うというような議論ではなく、現実(存在)の方が一定ではなく、複数的であり歪んでいるというような議論です。これは表象に基礎を置くカントの枠組みへの批判でもありますので、近代主義への批判とも言えます。近代的な概念であるデザインにおいて、近代主義を乗り越えようとするものです。同時に、近代主義の相棒である資本主義を乗り越えようという意味も込められます。これが持続可能性にとって重要なことは明らかです。だからこそ、存在論的デザインが資本主義批判であるというように連結されていきます。
これらは関連しているとは言え、あいまいに使ってしまうと議論がわからなくなります。例えば、在論的デザインが人間のデザインだというように言うなら、せっかく存在論的デザインということの意味が失われてしまいます。最後の4つ目の意味がとても重要になります。後からこれに戻ってきたいと思います。
ふたつの政治
私はこの本を最初に読んだとき、とても違和感がありました。というのは、本来リベラルな言説において徹底して批判されてきた領土、母性、神秘性、調和などの概念が単純に肯定されているように見えたからです。ちょっと整理しましょう。
左派の言説では、本質主義を徹底的に批判してきました。同じように持続可能性の問題について、ティム・モートンはあらゆる脱構築を通して、調和の取れた美しい自然などないと主張します。ジジェクは母なる自然などない、もしあるとするとその母は「ダーティビッチ」だと言うのです(母性を持ち出すならそれを解体してからにするべきということです)。母性のような概念は女性を苦しめてきたものですし、調和という全体主義的な匂いのする概念は必ず排除を前提としています。トッド・マクゴワンは、所属しないこと(non-belonging)を主張しています。つまり領土を確保して所属を確実なものとすることとは真逆なのです。
先祖伝来性、領土、大地、調和した地球、母性などを主張するのは、伝統的な家族や宗教的価値観を重視するという、むしろ保守の批判のように見えます。たしかに、家父長制は近代の発明ですが、だからと言って資本主義以前の伝統的な社会において、女性が平等であったというわけではありません。あるいは、人種主義、カースト制度など多くの問題もあるわけです。領土への帰属を主張するなら、必ず排除が生じます。このように、エスコバルは、真逆の論理を直結させるわけです。
本書は脱構築的なポストヒューマニズムや情け容赦ないドウルーズ的脱領土化というよりも、人類学的なハイデガー主義であろう。(p. 63)
つまり、エスコバルは保守を選んでいるように見えます。しかし、人間性や領土に回帰する保守に見えて、エスコバルは伝統的な社会に回帰することを肯定はしません。むしろ、左派の言説に従い、「強い関係主義」を主張します。つまり本質などなく、あるのは関係性であるということです。領土があるとしても、そこには確固として本質があるわけではないというわけです。なぜこのような真逆な考え方を直結させることができるのでしょうか?
その根拠は、資本主義以前の、あるいはそれとは別の南米の思想は、個人主義ではなく、まず関係性が支配的な文化だということです。たしかに領土を回復し自治を行い女性を解放するメキシコのサパティスタなどは、魅力的です。しかし、この相矛盾する論理を理論上どうやって統合するのでしょうか。エスコバルは、伝統に回帰するわけでもなく、近代主義的な解体にも与しないという意味で、「これ(伝統)でもない」「あれ(近代)でもない」と、否定によって領域を画定しようとするのです。しかしながら、その論理はあくまで土着の文化が絶対的で、近代主義的なテクノサイエンスや啓蒙主義は、それに従属するものであるとするのです。しかしながら、近代主義は土着の論理を破壊してきたとするなら、これをどうやって組み合わせるのかは曖昧なまま置かれています。
実は、ここでエスコバルは現在の政治の争点の中心的な位置にいます。つまり、左派の政治を考え詰めた地点でのモートン、ジジェクらの考え方と、それと真逆の土地や伝統を重視する保守との関係です。2016年あたりを思い出してみましょう。2000年代からの社会の脱構築、脱神秘化、フラット化、ポリティカルコレクトネスが極まった時点です。それに対抗するかのように保守の力が強くなり、トランプ政権が生まれました。この分断は、存在論的な意味での分断なのです。この問題を乗り越えるために、全く新しい視点が求められています。エスコバルはそれを生み出そうとしています。成功しているかどうかに関わらず、この難しい課題に取り組んで独自の視点を提供したのは賞賛すべきことです。
ここで実はモートンらとエスコバルが最終的に重なっていくのです。「脱構築的なポストヒューマニズム」の典型がモートンだとすると、彼は批判するものをエリート的に簡単に振り払うことを欺瞞であると批判します。「情け容赦ない脱領土化」を主張するとされるドゥルーズは、同時に完全な脱領土化の危険を理解しています。問題はどのように再領土化するのか、どのようにアッサンブラージュするのかという問題であって、資本主義的な情け容赦ない脱領土化(というより脱コード化)には批判的です。エスコバルは逆から同じところに到達しようとしているのかもしれません。私個人は、ここで先祖、神聖さ、領土など他所に拠り所を求めるのではなく、左から自己言及的に自分を問題としつつ自分を目的とする美学的なところに賭けようとしているのですが、結局は同じ問題に別様にアプローチしているということです。
Pluriverse (多元世界)の意味とは?
それでは多元世界とは何でしょうか? そのヒントは、エスコバルが依拠するマトゥラーナのオートポイエーシスにあります。この考え方は、ある世界の境界は、その外側の視点から画定されるのではなく、その世界自体が自己言及的に自身と別の世界との差異を作り出すということです。この外部の視点の拒否を真剣に考えなければなりません。
そもそもPluriverseは、多元主義とは異なります。多元主義とは、様々な文化が並列して平等に存在するのであり、それらの間には優劣はないというものです。しかし、このように複数の世界を並列に並べることは欺瞞なのです。なぜなら、そういうように複数の世界が並列していると考えるのは、エリート的な外部の視点だからです。つまり、世界が並列に存在するなら、それらを共役する別の論理があること、別の大きな世界があると想定しているわけです。それは複数の世界をひとつの世界の論理の上で配置するだけで、本来の意味で複数の世界ではないのです。
本当の意味での複数の世界というのは、別の世界について、理解不可能であること、表象不可能であることに向き合う必要があるということです。つまり、一つの世界にとって、別の世界というのは想定できず、考えうるのはあくまでも自分の世界の外側にある深淵、理解不可能な謎でしかないということです。エスコバルは時折これを強調します。
自治とは間にある存在および、間に在ることに関するひとつの理論と実践、あるいは多元世界に向けたデザインのひとつなのだ。(p. 295)
つまり、ありうるのは複数の世界ではなく、ひとつの世界と別の世界との「間」でしかないのです。この間は、ある世界にとって表象不可能な深淵です。これこそが、私たちがエステティック・ストラテジーで強調する「リアルの深淵」です。例えば、マトリックスという映画に出てくる「赤いピル」です。赤いピルを選択すると世界の外に出るのですが、世界の外はコワい「間」です。もし世界の外が予めどういうものかわかっているなら、それは外ではありません。柄谷先生の言葉で言うなら、「パララックス」です。エスコバルが世界の「間」を強調するのは、そういう意味です。間というのは、完成しない、表象できない、つまり未完の深淵です。
サヴランスキーが強調するのは、この意味でのPluriverseです。つまり、もし原住民の方が「神は存在する」と言うなら、「原住民の人たちは神など存在しないのに、それを表象して独自の観念的世界を作っている」と捉えることは、ヨーロッパ中心主義だということです(もちろん日本もその一部です)。つまり、原住民が神が存在すると言うなら、それが存在すると捉えなければなりません。それが現地の方々の世界だからです。ひとつの世界に関する複数の表象があるのではなく、複数の現実世界があるということです。一方で、神が存在すると言い切るならそれも欺瞞です。なぜなら、本当は神が存在しないと思っている人が、神が存在すると言うなら、それは上から目線でしかないからです。別の大きな世界の中に、原住民の世界を位置付けているだけです。
ではどうしたらいいのでしょうか? 結局は、神が存在すると言わなければならないけど、それを言うことの不可能性に向き合うということです。つまり、表象が不可能な点をどう捉えるのかということです。もしこれから目を背けて表象の水準に留まるなら、それは欺瞞でしかありません。これこそが、Pluriverse(多元世界)の意味なのです。決して複数の世界がひとつの大きな世界の上で並列に表象されるというエリート的な多元主義のことではありません。
エステティック・ストラテジーとの関係は?
それでは、このPluriverseとエステティック・ストラテジーとの関係はどういうものでしょうか? エステティック・ストラテジーは、現実が複数であること、現実が破綻していることに向き合います。意味のシステムの外部の深淵、これは意味のシステムから排除される無-意味の敗者、つまり意味のシステムでは表象が不可能な点を強調するのですが、これこそ世界の「間」なのです。つまり、リアルの深淵であり、パララックスです。世界の複数性とは、世界を同定できないということなのですが、それは世界が破綻していることを意味しています。これこそが、認識論的に世界の表象が破綻しているということを乗り越えて、世界自体が破綻しているという意味で存在論を主張することの意味です。
さらに言うなら、ここで世界が破綻していることの意味とは、実は世界を見ている私たちが有罪ということです。私たちが問題であり、私たち自身が世界の歪みであるということです。モートンは、持続可能性に関して私たちが有罪であると言います。これは、世界が破綻していること、その原因は私たちだということです。自分がこちら側にいて、問題があちら側にいるということは言えないのです。ゴールデンウィークで混雑すると文句を言う人は、その混雑の原因は自分だということを忘れています。自分を外に置いて客観的に眺めることができないからこそ、現実自体が閉じられることなく破綻してしまうのです。
そうであるならば、エステティック・ストラテジーとは、世界を崩壊させる絶望のデザインです。つまり、表象不可能な点を救済して、世界を崩壊させることです。その上で、多元世界を語ることができるのです。もし多元世界を簡単に表象するなら、それは本当の意味では多元世界ではありません。人間中心の自分勝手な言説です。ここで、本当の意味でデザインが存在論になると思います。つまり、世界など存在しないということ、世界が破綻しているということに向き合うデザインです。さらに積極的には、存在論的デザインとは世界を崩壊させるデザインです。
成功していないとは言え、エスコバルはこのような議論を可能としてくれました。私も色々ハっとさせられ、自分の考えを深めることができました。また、今回の対話によって、京大パートと水野先生の京都工芸繊維大学パートのつながりがよくわかるようになったと思います。京都クリエイティブ・アッサンブラージュは、上記のような不可能な領域に飛び込みたい方々と一緒に議論しています。今年も6月ごろに第3期生を募集します。