文化を創造するビジネスがいま、注目を集めている。そして文化の創造そのものが、大きな価値を生み出しているものが、ファッションをはじめとするラグジュアリー領域だ。ラグジュアリー領域は、高価なバッグや衣服に代表されるかつての典型的なラグジュアリーから変容を続けている。そしてラグジュアリーは、人文社会学と深い関係を持つ。今回はポストラグジュアリーをテーマとしているプロジェクト Letters from nowhereの方々、ミラノと東京を拠点にする、ミラノ在住のビジネス+文化のデザイナーである安西洋之さん、そしてイギリス文化、ファッション史、および「ラグジュアリースタディーズ」の専門家で服飾史家の中野香織さんのお話しから、ポストラグジュアリーを読み解く。(構成:森旭彦)

ラグジュアリーは人間性の尊重・探求に根幹が移行

安西さんはまず、この20年間で、新しいラグジュアリーを体現したブランドとして、「ブルネロ・クチネリ」を挙げます。現在はエルメスと同等の格付け評価がされているブルネロ・クチネリは、イタリアのラグジュアリーファッションブランドです。

非日常のドレスではなく、日常にあるエレガンスというのがブルネロ・クチネリの提案する服装です。そのデザインは、全体のコーディネートを重視しながら、アップデートされていくことが基本です。長期間にわたって着続けられることが特徴で、服は本社の100キロ圏内にある工房でつくられています。これらの特徴が、現代の文化的エリートに支持されているのです。

その歴史は1978年にカシミアを扱うことに始まります。当時のカシミアは男性向けの暗い色の多かったのですが、ブルネロ・クチネリは女性向けのカラフルなカシミアをつくってヒットさせました。

「人間らしいつきあいがお互いにできれば、自ずと創造性が発揮されるのですよ。その逆ではありません」(ブルネロ・クチネリ)

これが現在も貫かれているブルネロ・クチネリの哲学だといいます。

「これからのラグジュアリーを考える上で重要になることは、人間らしい日々を送ることのできる、人間らしさを尊重する文化をつくることです。ブルネロ・クチネリはまさしく人間性の尊重をテーマにしてきたブランドであり、現在は確固たる地位を築いています」(安西)

ブルネロ・クチネリは貧しい農民の子どもに生まれました。彼が中学生の頃、父親は農民をやめ、セメント工場の工場労働者になりました。すると、それまで明るかった父親がみるみるうちに暗くなったといいます。「彼は人間らしい扱いを受けなかった父親を見て育ちました。そして青年になったクチネリは、人間らしい働き方ができる、良い労働環境をつくろうと思い20代で創業したのです」(安西)

ブルネロ・クチネリは1978年に創業し、後に現在の本社がある中部イタリアの小さな街ソロメオへ移ります。彼は奇抜なデザインで驚かすようなファッションをつくることには関心はなく、すでにあるファッションをより良くすることに注力してきました。そして1985年からは、彼のライフワークとなるソロメオの街の再生を始めていきます。「美しさに責任を持つ」というローマ時代の皇帝ハドリアヌスの言葉を胸に、クチネッリは劇場や職人学校をもつくってきました。さらに2024年には、4-50万冊所蔵の図書館を設立予定です。「4-50万冊所蔵の図書館といえば、日本のさいたま市や静岡市といった県庁所在地のある市立図書館レベルです。そんな図書館を500人の街につくるわけです。哲学、建築、文学、詩、職人仕事に関する書物を世界中から集めることで、人間らしさのある社会に貢献するとしています」(安西)

ブルネロ・クチネリがソロメオの街で実践してきた人間性の尊重、深い精神性や意味を求めることが同社のラグジュアリーブランドとしての価値を支えています。これは、現在のポストラグジュアリーの潮流の最先端にいると言えるでしょう。

21世紀のラグジュアリーはベイン&カンパニー(ボストンに本社をおくコンサルティング企業)のミラノオフィスがオピニオンリーダ―となってきたといいます。そのベイン&カンパニーが2020年11月25日にイタリアのハイブランド企業の団体であるアルタガンマとの年次イベントで報告した内容はまさに、ポストラグジュアリーの方向性を指し示すものでした。

“この業界は2030年までに劇的に変わると類推されます。今後は『高級品業界』という括りではなくなり、『文化と創造性に秀でた商品が入り乱れる市場』になっていくことが予測され、高級品業界の企業には、大胆な思考の転換が求められることになると考えられます”

コンシャスラグジュアリーという潮流

続く服飾史家の中野さんは現在のポストラグジュアリーにどのような潮流があるのかについて話します。

中野さんはまず、ラグジュアリーの定義について、その語源から光(その時代を輝かせるもの)、繁茂、色欲という言葉で表現します。光はその時代を輝かせるものを意味します。繁茂すなわち豊かさはあこがれの対象です。そして色欲、言い換えれば誘惑は人間にとっては不可欠な要素であると言います。

そして中野さんは現在、ラグジュアリーの大変革が進んでいると言います。ラグジュアリーは本来、限られた支配層が自らの権威を示すためのものでした。しかし90年代以降に仏LVMHモエヘネシー・ルイヴィトンや仏ケリングといったハイブランドのコングロマリットが現われ、2000年代にはハイブランドの大衆化が始まり、大量生産、グローバリスムが過度に進み、持続不可能性が明らかになり、転換期を迎えることになったといいます。

「いわゆる古いラグジュアリーは情報や文化の格差がある世界における、富中心の世界観でした。排他的で特権的であり、それを持つことで階級や名声を与えるものでした。それに対し、新しいラグジュアリーでは、文化格差がなくなる世界での人間らしさの本質的価値追求が行われれます。包摂的で、文化創造とコミュニティの形成につながります。もちろんすべての価値が新しいラグジュアリーに取って代わられるわけではありませんが、私たちはこの転換をさまざまに目撃していくことになります」(中野)

そして中野さんは、新しいラグジュアリーとして「コンシャスラグジュアリー」を挙げます。

「コンシャスラグジュアリーは、エシカルラグジュアリー(2007年)、レスポンシブラグジュアリー(2009)、サステナブルラグジュアリー(2009年)に続く潮流です。コンシャスラグジュアリーでは、自分の本質と地球環境全体に意識を向けることが新しい価値、新しいビジネスチャンス、新しい文化をつくることになります」(中野)

文化的エリートの変遷とラグジュアリー

これらのラグジュアリーの変化を正確に捉えるには、文化的エリートの変遷を理解しなければなりません。

フランスの社会学者ピエール・ブルデューが興味深い分析をしています。60年代までの古い社会においては、文化的エリートは特定のクラシック音楽を聞いて、特定の絵画を好み、特定の料理を好みました。その趣味は、基本的には内容よりも形式を重んじて禁欲的です。例えば、フランスのテーブルマナーは、お腹が減っていないように食べなければなりません。

逆に大衆的な趣味は、形式よりも内容を重視します。エリートが味が薄くてわかりにくく食べにくいという意味で禁欲的な「魚」を好むとすると、大衆的な趣味は味がわかりやすく栄養のある「豚」を好みます。逆に、形式にこだわると、格好つけるなと周りから馬鹿にされます。中間層は、エリート文化に同一化しようとして上昇志向を持っています。無理して高級なワインを開けたりするわけですが、無理をしている時点でエリート文化を実践することに失敗しています。エリートは緊張感があるなかで自分がどう見られているのか気にせず、自然と無理することなくふるまえないといけないのです。

しかし、現在の社会は、この3階層のモデル(エリート、中間層、大衆)は説得力を失いました。クラシック音楽しか聞かないエリートなんていません。みんなロックやポップスを聞いています。これを「雑食(オムニボア)」と言います。昔のエリートがスノッブと言われて、高級でわかりにくいものしか好まなかったことに対して、現在のエリートは幅広いものを好む雑食になったのです。さらに最近のエリートは、高級車ではなく自転車にお金を使い、ミシュランガイド3つ星の料理屋ではなく自分でエキゾチックな料理をし、大きくゴージャスな家ではなく小さくてもセンスのいい家を好みます。趣味が逆転したように見えますね。

その理由は何でしょうか? ひとつには、60年代以降の消費者文化の発展によって、多くの人が高級文化にアクセスできるようになり、高級文化と低級文化の差がわからなくなったため、差異化できなくなったという事情があります。むしろ高級なものが陳腐になり、エリートはそれを否定しなければならなくなりました。さらに重要なことは、60年代終りに始まる若者の異議申し立ては、それまでの階層的な社会への批判でもあったということです。前の世代のスノッブなエリート主義は、伝統的な価値観であると批判され、もはや「クール」ではなくなったのです。

たとえば、以前の食通は「グルメ」と呼ばれ、高級なものを好みました。スノッブであることが格好良かった時代の話しです。現代の食通は自らを「フーディ」と呼び、スノッブであることを毛嫌いし、民主的な理想を掲げます。だから高級なものも食べますが、田舎のおばあちゃんの作る昔ながらのレシピ、高級なテキーラではなく土地に根差して品質も安定しないメスカル、フードトラック(キッチンカー)で提供されるB級グルメにこだわったりします。

ポストラグジュアリーと同じように、自然の素材、伝統的な製法、丁寧な手作りを重視しながら、スノッブなエリート主義を批判するものに価値が生まれているのです。しかしよく考えると、このような新しいエリートは、従来のエリート的なものが陳腐になったので、自らを差異化=卓越化するために、エリート主義を批判している新しいエリート主義とも言えます。格好をつけないことが格好いいというわけです。

一方で、現在のエリート文化は、利益を上げるために上辺だけよく見せるような資本主義的な表現を批判し、むしろ資本主義を批判するような正直で実質的なものに価値を見出します。従来は社会の階層構造に信憑性があったため、ブランドはそれだけで価値がありましたが、今はそのような階層構造に頼ることができません。そこで、価値を出すためには、真正性を確保しなければなりません。現在は、資本主義への批判が真正性を持つようになりました。だからこそ、人間らしさ、職人のこだわり、伝統への回帰などが価値となるのです。

ポストラグジュアリーは、この潮流に合った動きであると考えられます。現在、大きな価値を生み出すためには、このような文化を作ることが求められています。今回はエリート文化に注目しましたが、これはサブカルチャーやポピュラーカルチャーでも同じです。文化をうまく捉えてデザインする企業がイノベーションを起こす時代と言えます。