ダイヤモンドオンラインで3本目『ラグジュアリーブランドがこぞって「人間性」を志向する理由とは?』の記事が出ました。これは連載の記事ですので、ほとんど表面的なことしか書けていません。詳しくは、安西さん、中野さんの新著『新・ラグジュアリー―文化が生み出す経済 10の講義』をご覧ください。現在のビジネスを読み解く上で、とても重要な本だと思います。安西さん、中野さん、前澤さん、澤谷さんには、先日ご登壇いただきましたし、今後も運営に参加いただきます。
ラグジュアリーというのは、とても誤解を受けやすいです。ルイ・ヴィトンやエルメスなどのラグジュアリーブランドの話しかと思われるのではないでしょうか? これらのブランドは、今世紀に入ってからはほとんど信憑性を失くしましたし、むしろ批判の対象となってきました。しかしそうなったのは、90年代にラグジュアリーブランドがコングロマリットに取り込まれ、資本の論理で拡大していったからです。これには日本の消費者の、そして今は中国の消費者の貢献があります。ラグジュアリーとは本来はそのようなものではない、というのが本書の主張です。例えば、安西さんが紹介されている、イタリアのブルネロ・クチネリの人文学に根差した人間主義的経営では、奇抜なデザインではなく従来のデザインのアップデートを行い、従業員が尊厳を持って働き、地域の美しさに責任を持つ姿に人々の共感が集まっています。
中野さんは、ラグジュアリーの反対語は、「Poor (清貧)」ではなく「Vulgar (下品)」だと言います(p. 72)。これはガブリエル・〈ココ〉・シャネルの言葉に基づいています。下品とは、「本来のものではないものになろうとすること」です。つまり、背伸びをして高級なバッグを持つことは下品であり、まさにラグジュアリーの反対なのです。
それでは本来のラグジュアリーとは何でしょうか? この本では、この議論がかなり複雑に展開します。語源をひもといた中野さんの定義は次のようなものです。「ラグジュアリーとは、誘惑的であり、豊かさを表すものであり、光り輝く(輝かせる)ものである」(p. 52)。しかし、本書の議論を見ていると、この定義がうまく成立していないことがわかります。
18世紀までの王侯貴族の贅の限りをつくしたきらびやかなものから、19世紀の黒づくめのスーツを着るジェントルメンのスタイルが議論されます。後者は、複雑なルールを知りつくし正しく使いこなせることがラグジュアリーとなりますが、これ見よがしにきらびやかなものをまとうことが陳腐になったことによる逆転です。そして、20世紀にはココ・シャネルによる、アクリルなどの偽物を混ぜたコスチューム・ジュエリーに代表されるロックなブランドが中心となります。
ここで何が起こっているのでしょうか? これは、エリアスやブルデューが示していたように、正統文化が下の階層に人々によって真似されると、次にそれを否定することで自らを差異化すること、さらには庶民的なものをあえて取り込む余裕があること自体が高貴さを表す二重否定のようなものとも言えます。
しかしそれ以上の何かがあります。私なりに本書を読んで理解したのは、ラグジュアリーとは自分の独自のスタイルを生み出す創造力だということです。Luxuryにある過剰(excess)という意味が重要です。これは贅沢という意味での過剰ではなく、概念に収まりきらない過剰さが残るということです。この収まりきらない部分こそが、ラグジュアリーではないかと思います。中野さんは「好色」という語源を避けておられるようですが、関連するlust(強い性欲)、lechery(好色、みだら)は、inordinate(過剰、無秩序)を意味します。アポロ的な調和の取れた輝かしさではなく、ディオニュソス的な過剰の意味ではないでしょうか。既存の概念に依拠するのではなく、そこからあふれ出す創造性だと思います。
正統な文化が認定するものをよしとして着飾った瞬間に、ラグジュアリーではなくなります。自分の独自なスタイルではなく、誰かが提唱したものを、自分で考えずに借りてきたからです。だから、偽物のコスチューム・ジュエリーがラグジュアリーとなりえるわけです。単に、陳腐になったから否定するという表層的な実践ではなく、独自のスタイルとは何かを追求し続けるあくなき実践だということです。つまり、ラグジュアリーとは常にラグジュアリーを否定するポスト・ラグジュアリーなのです。
そこで本書の焦点である、現在の「新しいラグジュアリー」ですが、これは人間性を重視し、責任と倫理を前面に押し出し、ローカルな文化に根差した、サステイナブルなイメージです。これは資本主義に回収されたラグジュアリーブランドへのアンチテーゼ、環境破壊をするファストファッションなどへのアンチテーゼです。日本であればマザーハウスなどのブランドがわかりやすいでしょうか。ダイヤモンドオンラインの記事でも書きましたが、これが現在のエリートの美意識と合致していることは言うまでもありません。
しかし、もし人々がこの新しい「コンシャス・ラグジュアリー」を正解として追随したとすると、それはすでにラグジュアリーではありません。ここで、最終章の中野さんの感激するほど正直な揺れ動きが生じます。
…私はいじましい気持ちになってきました。関わるすべての人の尊厳を大切にすること、地球環境に配慮することはもちろん大前提です。ただあまりにも「コンシャス」にとらわれすぎていると、すべてが清く正しく、ときに小さくまとまっていく気がします。ラグジュアリーが本来持っていた、美醜の境界すら超えてしまうスケールの大きな輝きのようなものが遠のいていくように感じたのです。ラグジュアリーの原初的な姿というのは、機能や目的といった合理的な要素とはあまり関係がなく、それ自体が破格で突拍子もなくて、それゆえに世界の見え方を覆すほど驚かせてくれ、胸踊る喜びを与えてくれる比類ないものではなかったか? 安西洋之・中野香織『新・ラグジュアリー―文化が生み出す経済 10の講義』(p. 292)
まさに、このスケールの大きさ、破格で突拍子もないこと、つまり過剰こそがラグジュアリーではないでしょうか。本物ではなく、見せかけ(シミュラークル)こそがラグジュアリーです。本物という重く安心感のあるものに依拠した時点で、すでにラグジュアリーではないのです。本物という幻想と手を切り、見せかけを肯定しそこに全てを賭けることができること、これがラグジュアリーです。ダサくてモテないニーチェこそが、ラグジュアリーではないでしょうか。
だから、中野さんがラグジュアリーを宇宙開発になぞらえることに意味があります。宇宙に出ていくために多くの資金と労力を投資することは、「コンシャス」の価値観からすると批判されるべきものです。アポロ計画の成功輝かしい1970年にザンビアの修道女が発した言葉です。「地球上にこれほど多くの苦しみが存在するのに、大金を使って月に行ったばかりか、さらに火星に行くことが正義といえるのか?」(p. 294)。同様のことを最近イギリスのウィリアム王子が言ったとのことです。しかし、この宇宙という、次元を超えた過剰こそがラグジュアリーと言えるのではないでしょうか。だから、中野さんが、アポロ計画は数々の技術革新をもたらし、「広範な領域に恩恵」をもたらしたと言うとき、これはラグジュアリーではありません。むしろ、Falcon Heavyに自分のテスラを積み、宇宙の中を火星に向かって運転させたイーロン・マスクの意味不明な過剰の方がラグジュアリーではないでしょうか。たしかに、ハドリアヌス帝を持ち出し村全体を美しくしていくブルネロ・クチネリには、この過剰があります。
京都クリエイティブ・アッサンブラージュは、まさに自らの独自のスタイルを生み出せる人材を育てることを目指します。本物に追随し安心感を覚えるのではなく、見せかけを肯定できる方をお待ちしています。京都大学というラグジュアリーとはおよせ縁のないように見える大学が中心になってやることの意味がわかっていただけたかもしれません。