近年、企業において「デザイン思考」、そして現在は「アート思考」が注目を集めている。その論調というのは、概ねイノベーション創出のための新しい思考法として、デザインやアートをビジネスに役立てましょうというものだ。しかし、実際のアートというものは、本来、ビジネスにおいては役に立たない宿命にあるということを前回の連載では明らかにした。役に立たないということが、ビジネスで役に立つ可能性になる、というのがその真意である。この一見矛盾した自己批判、自己否定、自己破壊を受け入れない限り、アート思考をビジネスに役立てることは不可能だ。アート思考とは一体何なのか、アート思考に課された本当の課題とは何なのだろう? アート実践の根幹となる「エステティックス(美学)」の概念から紐解く。(構成:森旭彦)

アートによる「宙吊り」

前回は資本主義批判が、逆に資本主義にとって価値の源泉となっていることについてお話しました。今回は京都クリエイティブ・アサンブラージュが考える「アート思考」のビジネスでの活用についてお話しします。

まず、アートは、既存の文化や価値の序列をつけるフレームワークの「宙吊り」と言えます。「宙吊り」とは、哲学的な概念を表現した専門用語ですが、特定の対象の役割や実効性を無効にすることを示しています。

たとえばアーティストは、マルセル・デュシャンが『泉』でやったように、どこにでもある小便器を、アート作品として展示してみたりするわけですが、これが「宙吊り」です。機能や意味を中断し、かつアートとは何かということ自体も中断します。アーティストがしばしば突飛であったり変わり者のように見えるのは、既存の価値判断では「良い」とも「悪い」とも判断のつかないものを「宙吊り」にして見せるからです。もう少し詳しく、順を追って見ていきましょう。

アートによる「宙吊り」を理解する上で重要になるのが、アートの本質であり、「美しさとは何か」を問う哲学、「エステティックス(美学)」です。エステティックスは、18世紀中頃にドイツの哲学者、バウムガルテンによってその名称がつくられました。そして、同じくドイツの哲学者、イマニュエル・カントによって、本当の意味で美学が決定づけられます。

カントが説く「美的判断」とは?

カントは啓蒙思想の頂点に立つ哲学者です。高校で習う、有名な哲学者ですね。1790年にカントが、『判断力批判』を発表します。この中で、美しいものに関する私たちの主観的判断、「美的判断」について解明した点が、カントによる美学への大きな貢献でした。

カントによれば、人が下す美的判断は、主観的でありながらも、多くの人が同意しうる普遍性を持っています。カントはそれを、「関心が入らない判断」と表現しました。

美的判断は、人が何かを、道徳的に間違えているから美しくないとか、欲求に適っているから美しいというのではなく、「関心が入ることなく直接的に判断する」ということです。美しいものを見たときに「恍惚と我を忘れる」ような状態がそうです。美とは無関心かつ直接的に感じるものなのです。

たとえば、ある宮殿が美しいのか醜いのかを判断するとき、「君主が民衆を搾取して自らの見栄のために作ったから醜い」と判断した場合、仮に事実であったとしても、それは関心が入っている判断ということになります。そうではなく、宮殿自体が直感的にどう感じられるのかが美的判断においては重要なのです。

また、カントによれば美的判断は論理的な考え方からも自由でなければなりません。つまり「何も意味しないもの」が美しいということです。意味が遮断されたような、我々にとって理解できないものが美しいという感覚です。さらに美的判断は、「美しさとは、かくあるべきだ」という理念からも自由でなければなりません。

このカントの理論に刺激を受けたドイツの詩人・思想家フリードリヒ・フォン・シラーは、1795年に、次のように書きました。「理性はまたこうも発言しています。ー人間は美といっしょにただ遊んでいれはよい、ただ美とだけ遊んでいればよいーと。」(第15信)。美的な体験は、義務の尊厳さに基づく道徳からも自由であり、それこそが新しい道徳の可能性というわけです。

激震の時代に起こった必然

ここでまでに紹介した、エステティックスの基礎を生み出した哲学者や思想家はみな18世紀末を生きた人物です。そもそも、18世紀末とはどういう時代だったのでしょうか? まず、1789年のフランス革命の激震がありました。君主制からブルジョワへの力の移行が起こりつつあったということです。

同時に、産業革命が産声をあげていました。ジェームズ・ワットとマシュー・ボウルトンが会社を立ち上げ、蒸気機関のパテントが更新されたのが1775年です。そこから一気に産業革命が進みます。そして、同時に、資本主義がさらに浸透していきます。1776年にアダム・スミスが『国富論』を記し、「神の見えざる手」という世界観を示した時代です。

こうした歴史的背景のもとに生まれたエステティックスが果たしてきた役割は、資本主義の道具的合理性の「宙吊り」と考えられます。道具的合理性とは、利益という目的のために効率的に最適な手段を選ぶという合理性です。道具的合理性が得意な主張は「無駄を省く」「客の要求を満たす」のようなものですが、「アートは役に立たない」と切り捨てるのも同様です。エステティックスは道具的合理性の主張の「宙吊り」つまり無効化をしてきたという歴史的背景を持っているのです。そもそもビジネスを批判する考え方なのです。

このようなエステティックスに基づくアートを、ビジネスに役に立てようと考えているとすると、そもそも矛盾してしまいます。さらには、ビジネスの役に立つアートとは、そもそもアートではないのかもしれません。

ビジネスを「宙吊り」にする「アート思考」

それでも、アート思考がなぜ現代に求められ得るかを考えていきましょう。そのためには、デザイン思考がなぜ求められたのかをふりかえるところから始めなければなりません。

2000年代中頃にデザイン思考が議論され始めたときは、製品の意匠としてのデザインに注目が集まっていました。技術を研ぎすませてモノを作るだけでは売れない時代になっていたため、利用者の体験をデザインする視点が求められ、企業はこぞってデザイン思考を採り入れました。

2000年代後半になると、前回述べたように、製品が市場に流通すると陳腐に感じられ、価値を失うというサイクルに入っていきました。ブランドに力がなくなっていきます。とくに、2008年の金融危機以降、むしろ資本主義を批判するものにこそオーセンティシティ(真正性)が感じられるようになります。本来資本主義の成長と利益追求を批判するはずのESG投資がメインストリームになり、社会問題を解決しようとする社会的起業家が注目を集めました。

こうした背景を受け、デザイン思考はますます企業に採り入れられてきます。デザイン思考は、単に意匠としてのデザインをカッコよくするだけではなく、資本主義の原理を「宙吊り」にするような批判性を体現していたはずです。たとえばデザインで象徴的なスティーブ・ジョブズは、ユーザーの要望を聞かずに自分がカッコいいと思うものを作り、利用者には見えないところの配線の美しさにこだわったりするわけです。これらはみな、資本主義の経済合理性を無効化し、批判するパフォーマンスです。

しかし、デザイン思考は、エステティックスを否定しました。アートの本質であるエステティックスは、エリート主義的な考え方です。つまり、絵を描く能力など、美術大学で専門的な教育を受けた、特別な才能のある人だけのものだと考えられてきました。

一方のこの時代のデザイン思考は「誰でもデザイナーになれる」といった非エリート主義的な考え方を重視したため、いわばエステティックスなきデザイン思考が広まることになります。そしてデザイン思考は、誰でも扱える問題解決のツールとして浸透していきます。これがデザイン思考の現在地です。

少しややこしくなってきました。そもそも現代アートは「美しい」ということからすでに手を切っており、エステティックスも美大のエリートだけのものではないはずです。フランスの哲学者ジャック・ランシエールは、カントに立ち戻り、エステティックスを捉え直しました。ランシエールは、エステティックスを、既存のフレームワークを宙吊りにし、新しいフレームワークの可能性を示す概念であるとしました。これが、現在のアート思考が拠り所にする考え方です。

デザイン思考は、古いエステティックスの考え方を否定しましたが、そもそもこの本来の意味でのエステティックスこそが求められていたのです。

この点を正確に見極めないと、本当のアート思考は実現できません。アート思考がビジネスに役に立つという単純な考えでは、デザイン思考が陥ったのと同じように、本来求められているエステティックスを否定する過ちを犯してしまうわけです。それはすでにアートですらありません。

その一方で、現在の資本主義社会では、このような宙吊りの批判性こそがオーセンティシティを持ち、人々を魅了しています。ゆえにアート思考が求められているのです。つまり、役に立たないという事実こそが、役に立つわけです。この矛盾を理解した実践が今、求められていると言えるでしょう。