京都クリエイティブ・アッサンブラージュは新しい世界観を提示することで時代を切り開く人材を育成します。現在、成熟した資本主義をはじめ社会の基礎となる枠組みや価値観そのものが揺らぎ始めています。
その結果、旧来的な枠組みによる問題解決やニーズの充足を目指しているだけでは、価値を創造することができなくなってきています。それらの価値創造は、人々を一時的に満足させることはできても、揺さぶり突き動かすことはできません。
時代を先導し、大きな価値を産み出すためには、緊張感や違和感を伴いながらも、新しい社会へ人々が一歩足を踏み出せるような「世界観」をつくり上げねばなりません。
新しい世界観を生み出す創造性は、決して限られた人が持つ特別な力ではありません。社会の微妙な変化を感じ取り、小さな読み替えをしていくことから始まります。
京都クリエイティブ・アッサンブラージュは、社会をよく見て表現する人文社会学的視点、別の現実を作って体験することで日常を捉え直すスペキュラティブなデザイン、そして既存の枠組みを宙吊りにし安易な結論づけを妨げるようなアートの実践にそれぞれ触れることで、新しい世界観をつくる力を導きます。
私たちはこの世界に創造性を育むことをミッションとして、ここに集まりました。現在は創造性が義務になりました。面白いアイデアを出せと言われ、人々が苦しんでいます。個人が一人で考えても、夢のようなアイデアが生まれてきて、イノベーションが実現できるわけではありません。
創造性は個人の中ではなく、社会の側にあります。社会の変化を捉えられていないのに、発想しようとしても苦しいだけです。社会の小さな変化をよく見て、風がどこにあるのかを感じ取り、風のあるところでアイデアを考えなければなりません。そして、そこでの小さなアイデアが、人々に新しい風の方向性を示し、力強い風に乗って次の時代を指し示すことになるのです。
創造性とは、よく見ることです。美術大学で強調されるのは、上手に描くことではなく、よく見ることだと言います。他の人には見えない色合い、陰影が見えるのです。何かすごいものを作ろうとする前に、まず「社会」をよく見ることが必要です。よく見ることで、社会の違和感を感じ取り、新しい時代を表現することができます。感覚で突き進むのではありません。
創造性は過去のしがらみを離れて自由に発想することではなく、むしろ歴史の文脈に敏感になり、現在を捉え直し、新しい時代を表現していくことです。自由に発想したアイデアには、あまり力を感じません。それが歴史の動きを捉えていないと、ひとつのアイデアにすぎず、社会を変えていくような力強さがないのです。
歴史の変化を敏感に感じ取って、新しい時代を表現すること。これまで時代をつくったイノベーションというのは、どれもその時代の人々が感じている小さな違和感を捉え、新しい自己を表現することを可能にしたものです。
今のデザインは、利用者自身もわかっていない隠れたニーズを発見し、満たすことで成功するとされています。しかし、潜在ニーズを満たしてくれるデザインには、システムに取り込まれるかのような喪失感を感じないでしょうか。
むしろ人々を新しい時代に連れ出すようなデザインこそが重要だと思います。それはドキドキする怖い体験です。ニーズを満たして閉じてしまうことでハッピーな状態を作るのではなく、むしろ新しい時代に一歩足を踏み入れる怖い体験を作り出すのです。そのとき人々は今ここで生きていること、他の人々と一緒に時代を作っていることを実感します。
私たちはそうした創造の喜びこそを、この世界で多くの人と分かち合いたいと思っています。
Assemblageは、異質なものが集っていることを意味しています。均質に統合されたものではなく、異質でそれぞれ独立したものが関係し合い、新しい効果を生み出している寄せ集めです。この関係性には緊張感があり、均質になろうとする動きと距離を取ろうとする動きが拮抗しています。固定したものではなく、常に生成変化しています。
3大学および多くの企業や行政関係者が、緊張感のある関係の中で協働することで、新しい効果を生み出してこうと考えています。そして、ここに参加するのはリストアップされた人だけではありません。多くのモノ、色、音、多くの考え方、言葉、模様、アルゴリズム、データ、多くの文化、スタイル、資本主義が参加します。プロジェクトに空間的な境界はありません。このテキストを読んでいるあなたもAssemblageを形成しています。
そして、Assemblageは人間中心主義を批判する概念でもあります。一人の個人は好きなように行動できるわけではなく、これらの異質な関係性が形成されることで初めて、新しい行為が可能になるのです。私たちが考える創造性は、個人の内なる自然から湧き上がってくるものではなく、Assemblageによって可能になるものです。創造性が個人の中ではなく、社会の側にあるというのは、個人もその一部であるAssemblageが創造性の主体であるということです。そして、個人も皮膚の境界の中に閉じ込められた存在ではなく、異種混淆なものの寄せ集めとしてのひとつのAssemblageなのです。
そして、この創造性は、社会の外からアイデアを英雄的に押し付けるものではなく、社会の内側から部分的に解体していくことで、新しいものを生み出すことを意味しています。Assemblageに均質性を拒否するということは、均質性を押し付ける超越的な原理を認めないということです。英雄的な「個人」や重苦しい「社会」などなく、あるのは異質なものの寄せ集めなのです。私たちにできるのは、社会の小さな差異を感じ取り、それらを読み替えていくことです。そしてそのとき私たち自身も生成変化します。
Assemblageには、これらの意味が込められています。もともとはGilles DeleuzeとFélix Guattariによって使われたAgencementというフランス語ですが、英語に訳されるときにAssemblageという語が使われるようになりました。Assemblageは、アートでは立体的なコラージュの意味でも使われます。日本語では配列とかアレンジメントが使われますが、アートのニュアンスを保持するために、アッサンブラージュと片仮名で使います。
山内 裕 | 2021
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